使徒信条 -その告白的講解(2) 岩永隆至


 

二、父なる神

 使徒信条には、人間からの、すなわち下から上に向う宗教の姿は見られない。聖書によると、神は上から人間に語り、天から自らを示しておられる。人間にはこの啓示に対して応答的告白と感謝の服従が求められるだけである。こうして神の啓示にふれた人間が心の目を高くあげる時、このとき始めて人間存在が神の恵みの器として肯定される。この応答的告白が、「我は…信ず」と表現されているのである。

 「我は信ず」、「父なる神を」。第一項として、まず父なる神への告白から始まるのが使徒信条である。

 使徒信条は、三つに区分できる。父なる神について、子なる神について、そして聖霊なる神について。三位一体論的構造でつづられている。この枠組みは、使徒的宣教の始めに、復活の主イエスによる宣教命令で語られた三位一体の神の名による洗礼への招き(マタイ28:19)に起源を持つ。使徒信条の原形となったローマ信条は、四世紀初めのニケヤ信条よりも古くからあったわけだから、ニケヤ会議で神学的に明確化された三一論は、信仰告白としてはそれ以前の教会ですでに不動の場を占めていたことが分る。それは使徒時代の出発点から据えられていた信仰の土台である。

 神の三位一体としての存在は、人間的思弁から生み出されたものでは決してない。「それは、神が御自身についてそのように、すなわち、これら三つの位格が唯一まことの永遠の神であると、その御言葉において啓示なさったから」(ハイデルベルク信仰間答 25 新教出版、吉田隆訳 以下同)、そのように信じ告白するのである。

 この三位一体論は、キリスト教神学では時代を越えて中心的関心事となってきた。実に神学とは、三位一体論議そのものであると言って過言でない。宗教改革者カルヴァンは、使徒信条の線にそってあの名著『キリスト教綱要』をまとめている。今日の教義学では、使徒信条には直接文字表現として出てこない啓示論や聖書論、人間論や贖罪論々議、礼典論なども扱うが、使徒信条の三一論的枠組みは、教義学の基本項目とその構造の在り方を提供し続けている。体系化された教理神学は、使徒信条的に、すなわち三一論的定式でまとめるのが世々の教会の常識であった。

 「我は信ず」、この言葉に始まる使徒信条は、続いて「全能の父なる神」と記されている。だが、「全能の」「父なる神」、この二つの語は、使徒信条の前段階にあった古ローマ信条の時から共に語られてきた。信条の主要対象は「父なる神」であって、「全能者」だけの表現はなく、両者の結びつきは始めからあった。まずこの事実を確認しておきたい。

 さて同じ聖書の中でも、神を父と呼ぶのは主として新約聖書である。勿論旧約聖書にもある。だがごくまれで数箇所しかなく、「我々は皆、唯一の父を持っているのではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか」(マラキ2:10)に見られるように、それは、新しく造られた救いの恵みの中で万物の創造主なる神を呼ぶ告白として用いられている。ところが新約聖書には、旧約的な告白を合みながら、それ以上に御子なるキリストとの関係で神を父と呼ぶところに新たなものを見い出す。さらにこのことは、同時に、御子を信じる者たちにとって神は父である(ヨハネ20:19)との告白へと信仰者を導くものとされている。

 これらのことから、使徒信条の第一項「父なる神」への告白は、第二項、御子なる神への告白なしには成立しない。第二項にまで目を通すことなしに、第一項は正しく読めない。もし第一項から「父」という語を消し去り、「全能の神」だけにしてしまうと、それはユダヤ教やイスラム教の神信仰と何ら変わらない。そしてまた、第一項に続く第二項の教理は、第三項「聖霊なる神」への信仰なしには空しい言葉に終ってしまう(Tコリント2:14、12:3)。従って、第一項だけを独立させ他の項と切り離して理解しようとする時、直ちに白然神学の罠にはまってしまう。第一項は、第二項の御子による贖い、第三項の聖霊による救済の働き、これらと共に理解され信じられるとき、始めて「全能の父なる神」への告白としてその信仰は神に受け入れられるのである。

 聖書は、神の存在とその唯一性、聖なるご性質と御業について語りながらも、何よりもキリストを語る。聖霊とその働きについても語るが、それは、救い主キリストヘとわれわれ罪人を導くお方として、語っている。実に聖書の教えの中心は、御子イエス・キリストである(ヨハネ5:39、Uテモテ3:15)。それは第二項の内容である。このことをはずして聖書は正しく読めない。しかも正しく読む者には、キリストのもとに行くこと(ヨハネ5:39)と、キリストを礼拝すること(マタイ2:11)とが、実りとして伴うはずである。

 かつてキリスト降誕の時、東方の博士たちに、イエスの誕生の場所ベツレヘムを聖書から教えたエルサルムの律法学者たちがいた。だが東方の博士たちのようにイエスを拝みに行こうとしなかった。それでもなお、律法学者たちは聖書を正しく理解していたと言えるのだろうか?知的読み方は誤っていなかった。けれどもキリストを証しするものとしての聖書への信仰的機能は欠如していた。

 天地が創造される前、すなわち永遠において御子を生みたもうたお方(コロサイ1:15)、これが父なる神である。ですから父は、御自身から生まれたお方を「愛する子」と呼んでおられる(マタイ3:17)。まさに唯一の神を父と呼ぶことができるお方は、誰よりもまず御子である。この特権は御子にこそある。しかも永遠から持っておられた特権である。「神の子たち」と呼ばれるわれわれが存在する前から、人類誕生の前から、三一神の内在において。そしてまた、救い主としてこの世に来られたあのナザレ人と呼ばれた地上の歩みの中においても。そして今も後も永遠に至るまでも。

 このことは、御子も神としては同質の神である(ヨハネ1:1、ヘブライ1:3)、だからこそキリストは真の神として父なる神を十分に示すことのできる唯一のお方である(ヨハネ1:18、14:7〜9)。このように告白するとき、真実な意味で父なる神への信仰を告白したことになるのである。

 われわれキリスト者は、主の祈りを口にして「天にまします我らの父よ」と神に呼びかける。その時それは御子キリストの父に呼びかけるのであるが、同時にまた、父に代表される三一神に対する呼びかけでもある。第二位格の御子にとっては、第一位格のみが父である。それはご自分とも聖霊とも区別された意味での父である。ところが御子を信じる者たちにとっては、三一神そのものを父と呼ぶことが許されている(ヨハネ20:17、口ーマ8:14〜16)。父という名において、三一神が代表されているからである。この場合の父は、旧約聖書で神が父と呼ばれているのと近い。「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』、これは永遠からあなたの御名です」(イザヤ63:16)。「わたしはイスラエルの父となり、エフライムはわたしの長子となる」(エレミヤ31:9)。御子を信じる者は、神を「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を受けている(ガラテヤ4:6)。御子を信じるが故にわれわれは神の味方とされ、われわれに敵対できる力は滅ぽされ、御子をさえ惜しまずに死に渡されたお方は御子と一緒にすべてのものを信仰者に賜わり、(ローマ8:31,32)、苦しみも含めてすべてのことを働かせて益となるように導く父(同8:28)としてわれわれを愛して下さっている。また、人間の父親は愛をもってわが子を鍛える。だが「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられる。およそ鍛練というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた身を結ばせるのである」(ヘブライ12:10,11)。だから「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない」(同5)と語りかけておられる。これがわれわれの父と呼ばれる神である。

 「我は全能の父なる神を信ず」と告白する時、もしこの父が、神の一般的父性、すなわち全人類に対する愛に満ちた父性として捉えられるとき---エフェソ三章一五節がそのように理解されることがある(口語訳参照)---それは、多くの人々に抵抗なく受け入れられる神信仰となる。たとえ異教徒であっても…。ところが次の第二項キリスト告白に移ろうとする時、理解に分裂が生じ異論を口にする者が出るに違いない。そして直ちにそれぞれの神々に心を向けるであろう。これも、第二項と独立させて「父」という呼び名を読む誤ちから生じるものである。

 神を、「父なる神」として告白する信仰は、救い主御子キリストヘの信仰告白と分離できない。とはいえ、位格の違い、すなわち父と子の区別、これを暖昧にしてはならない。そうでないと様態論の誤りに陥り、聖書が語る三一神でなくなる。位格の区別を明確にしながら、父なる神への信仰を、御子への信仰と共に「われわれの父」として信じ告白するとき、そのときはじめて聖書が語る神信仰が確立するのである。

 「イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。…父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません』」(マタイ11:25〜27)。

(せんげん台教会牧師)


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