使徒信条-その告白的講解(3)   岩永隆至


 

三、全能の神

 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」。これが使徒信条の第一項の全文である。だが、やがて使徒信条として完成されるに至る前の古ローマ信条の初期のものには、「天地の造り主」は入っていなかった。「全能の神」で言い尽くされていると理解されていたからであろう。

 但し、「全能の神」とだけ表現されたものはなく、いつも「全能の父なる神」と告白されてきた。このことは、留意すべき大切な点である。使徒信条では、全能の神を、ただそれだけを一人歩きさせてはいない。父なる神と呼ばれるお方が全能者であると自覚して告白すること、これを強く求めている。この「父なる神」については、第一義的には御子キリストの父であること、従ってまた御子を信じるわれわれにとって父であられること、これらを無視しては読めないことはすでに述べてきた。

 さて、神の全能性については、何よりもまず、神御自身の内に秘められた無限の力としてわれわれはそれを信じる。それは、人知では計りがたい大いなる御力である。そしてその御力が、奇しき知恵による計画のもとに、神の外なる御業として現わされた働き、すなわち無からの創造の御業、また被造物すべてに今も及ぶ摂理の御業、これらの中に示されている。これを教会は信じるのである。

 「無からの創造」という言葉そのものは、聖書に見い出せない。旧約外典にしかない(Uマカバイ七28)。だが直接表現は聖書になくても、その内容は聖書に満ちている。聖書の冒頭、創世記第一章を読むとき、天地の存在以前には神以外のものは何もなく、神しかおられなかったことを明らかに知らされる。神のみが永遠者であり、他のものは神によって存在させられ、それ故、被造物はすべては始めを持ち、永遠ではなく、時間的なものにすぎないことが示されている。ヘブライ人への手紙にも「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのでないことが分かる」(ヘブライ一一3)と語られている。そして、これは「信仰によって」われわれが持つことのできる確信とされている。上から与えられた啓示による認識であり、地上で確認できる何かを土台に未知なるものを探り知ろうとする科学的知によるものではない。そしてこの信仰による確信は、救い主キリストを信じる信仰と切り離すことのできないものでもある。

 ここに、「この世界が神の言葉によって創造された」と記されている。創世記一章を読むと、「神が言われた。そのようになった」、これが繰返し語られ、神の知恵に基づく意志決定の表明と、その内容の実現化とを見る。これは、熟慮に満ちた計画、すなわち聖なる定め、聖定に基づく創造の御業である。その上、生ける神の人格的み言葉であられる永遠のロゴス、受肉前の御子の参加をも読み取れる。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ一3)。また、創世記一章二節によると、聖霊なる神もそこに参加しておられたことが示されている。

 全能の神は、天地のすべて、万物を造られただけでなく、熟慮と全能の御力をもって今も万物を保ち支配しておられる。全能者の知恵と力の御手の及ばない被造世界は、何一つない。人間の自由な行為でさえも(フィリピ二13)。これを神の摂理という。

 「摂理」という言葉そのものも聖書にはない。この語はギリシア哲学から借りて、それをキリスト教で用いだしたものである。元々の意味は、この世のあらゆる出来事はすでに世界理性で決められておりその通りにしか成らない、という決定論的・運命論的思考を示すものであった。ところがこの語を、ヒエロニムスが創世記二二章のラテン語翻訳(四〇〇年頃)に際して導入したことから、キリスト教信仰と神学の中で用いられだした。それは、その子イサクを犠牲として献げよとの命令を神から受けたアブラハムが、イサクを連れてモリヤの山に出かける途中、イサクの質間「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」に答えて、「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と語った「備えてくださる」、これに摂理という言葉ブロビデンティアを訳語として用いた。

 この使用法で理解できるように、神の摂理とは、ただ単に歴史と自然界に起こることは何事も神の摂理として信じるだけでなく、特に、契約の民のために神があらかじめ良き備えをしておられると信じる信仰にこそ適用すべき告白的言葉である。それは、キリストにある者のためには全てが相働いて益となるよう配剤しておられる父なる神の全能の今働く力を言うのである(ローマ八28)。イエスを十字架にかけた者たちの動きさえも神のもとにあった(使徒二23)が、この事も、結局は、罪人に救いをもたらす出来事の成就となった。人間の悪行をも御手の中に置いておられる全能者は、神を父とあおぐ主の民たちに、時に応じて祝福を与えられる神である。金銭感覚からみる限りほとんど価値のない一羽の雀すら「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ一○29)と語り、白然界の小さなものにも及ぶ神の摂理についてのイエスの説教は、実はその事を教えるのが主要目的だったのでなく、「たくさんの雀よりはるかにまさる」主の民に、「だから人々の前で自分をわたしの仲間である」と恐れずに告白するよう強くうながすためのものだったのである(31〜33)。

 ヨブは苦しみの真っ真中で、おろかなことを口にする妻に向って、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ二10)と悟している。人間的に見て不幸と思われる事柄をも、神の摂理として告白したヨブに対して、神はやがて二倍の祝福を与えられた(四二12)。「……雨も日でりも、豊作の年も不作の年も、……健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされる」(ハイデルベルク信仰問答二七)、これが神の摂理の御業である。

 この摂理信仰は、不用意に口にすべきでない。告白すべき時がある。自分が罪を犯した時、もし摂理の神に目を向けるだけだとすると、犯した罪に対する痛みの告白はでてこない。倫理的責任もきびしく問わなくなる。アダムの堕落をも神の摂理のもとにあったと信じるが、もしわれわれ白身が犯した罪の生活をも神の摂理として告白したとしたら、それでも聖書の教えにかなう摂理信仰の告白と言えるのだろうか?

 かつて神はモーセに語られた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現われたが、主というわたしの名を知らせなかった」(出エジプト六3)。これによると、「全能の神」エル・シャダイの名は、旧約の族長たちにご自分を現わされた神にその特徴的意味を見い出せる。それはかつて、全能の神としてアブラハムに語りかけ、子のない老夫婦に子を与えて子孫を増し加えると約束し(創一七1,2)、やがてその全能の力を働かせて約束通りにイサクを与え、その後イサクにも(二八3)その子ヤコブにも(三五11)、全能の神として自已を示しながら子孫を増し加えるとの約束を繰返し語り、約束通りに主の民を増えひろがらせた神の御業に見ることができる。パウロはアブラハムを、無から有を呼び出される神を信じた者、と紹介している(ローマ四17)。

 時は去り時満ちたとき、「どうして、そのようなことが」と、とまどう処女マリアに、「神にできないことは何一つない」と語りかけ、全能の御力による奇跡をもって受肉の出来事を起こされたお方の中に(ルカ一26,38)。また、ゲッセマネの園で恐れてもだえながら、「父よ、あなたは何でもおできになります」と神の全能性に訴え(マルコ一四36)苦しみからの救いを求めつつ、しかし十字架の道へと進むことこそ父の御旨だと心に納得された苦悩に満ちたイエスの祈りの言葉の中に。そして何よりも、イエスを死者の中から復活させることによって、その全能の力を遺憾無く発揮し啓示された救いの御業の中に(エフェソ一20)。

 全能なる神は、万物の創造だけでなく摂理の御業の中で、特に恵みの契約や救済の働きの中でその御力を現わしておられる。このような全能者を、御子キリストの父であり、また御子を信じるわれわれの父として告白するのである。

 やがて使徒信条と成る前の古ローマ信条の時から、「全能の神」のみの表現は用いられず、いつも「全能の父なる神」と告白されてきたこの事実は、第一項の「全能の神」への信仰は第二項「神の独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」に対して無関心のまま口にすることのできない告白文であると言わねばならない。このことを的確に表現した文章として、ハイデルベルク信仰間答書の第一項への言及を紹介しておきたい。「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、ということです。わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益として下さることを、信じ疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでおられるからです」(二六)。

(せんげん台教会牧師)


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