改革派信仰とは何か


神戸改革派神学校校長・牧田吉和牧師

聖書 ローマ人への手紙十一章33〜36節

 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
「だれが、主の心を知っていたか。
だれが、主の計画にあずかったか。
また、だれが、まず主に与えて、
その報いを受けるであろうか」。
万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。
栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。


序 「本講演の目的について」


 まず、最初に皆様に心からご同情申し上げます。昼食の後、ただちに一時過ぎからの集会というのはほとんど狂気の沙汰というか、目覚めて聞いていただくなんて事は生理的にほとんど不可能だと思っております。何という凄いスパルタ教育の教会なのかと思ってしまいます。
 「改革派教会とは」という題になっていますが、私のほうは「改革派信仰とは何か」というテーマで話させていただきます。内容的には一緒です。
 大きな字で書いたレジュメを用意しました。以前はこういう事は全然思い付かなかったのですが、最近字が小さいと大変なんです、目が悪くなって。それでこの頃はお年を召した方に対する心が大変暖かくなりまして、字を大きく拡大コピーをしてきました。御覧下さい。
 講演ということですが、どうして「改革派信仰とは何か」という題でお話する気になったかといいますと、日本基督改革派札幌伝道所という、「改革派」という名前を掲げて出発されたわけですから、やはり「改革派とは何か」という事をお話してゆく方が皆様の教会の将来のためにも大変良いのではないかというのが一つ目の理由です。
 もう一つは、先程お話を聞きましたら、他教派から来ていらっしゃる方もかなりおられる。生まれは他教派でそしてここに来てらっしゃる方もかなりおられると思うんです。そういう方に改革派というのはどういうものの考え方をするのかということをお話すると、改革派に加わって教会生活をしていただくことの意味もより良く分かっていただけるのではないか、ということが二つ目の理由です。
 それから三番目は、改革派での教会生活がうーんと長い方がおられて、だいたいこれからお話するようなことは分かってらっしゃるんですが、ちょっと角度を変えて、少し新鮮に改革派のことを考えていただく必要もあるんじゃないかなということがあります。大体それくらいのねらいがありまして、このテーマを選ばせていただきました。以上のようなことをふまえて改革派では、信仰の本質的ありかたというのをどのように考えるのかという点を明らかにしたいと思います。それがこの講演の目標です
 午後の時間ですから、途中でできれば一回休んで、コーヒーブレイクをしてからまた話を続けたいと思います。そのほうが皆さんの生理的状況にも合致すると思いますので。

本論

1「改革派信仰の核心としてのCoram Deo (コーラム・デオ“神の前に”)の意義」

 改革派信仰について話そうと思うといろいろな角度から話すことができます。しかし、まず、改革派信仰というものを考えるときの一つの基盤、基本的角度、ということを最初にお話したいと思います。それが実はこの講演の全体の前提という意味ももっています。
 改革派信仰の特色を現すのにはいろいろな言葉があります。「神の主権性」だとか「神中心性」だとか「有神論的世界観人生観」だとか「ただ神のために」とか、多様な言い方ができるんですね。これはどれも間違っているわけじゃないんです。どれも当たっているんです。ただ私としては改革派信仰というものを理解していただくときに、それらの言葉じゃなくて、別な言葉を皆さんに最初に提示したいと思うのです。それがアウトラインにに書いてあります“Coram Deo”(コーラムデオ)という言葉です。これはラテン語ですけれども、このCoramというのは何々の“前に”という意味、Deoというのは“神の”という事です。つまり、“生ける神様の御前に”、“神が本当にそこに臨在してらっしゃって、その神様の御前に生きる”。私は、改革派信仰というものについてここから出発して考えた方が良いと思うのです。なぜそうなのかといいますと、例えば今言いましたように、「神の主権性」だとか、あるいは「神中心性」だとか、あるいは「有神論的人生観世界観」だとか、ただ「神の栄光のために」とかいういろいろな概念というのは、一つの主義主張ということになりやすいのです。難しい言葉でいえばイデオロギー、あるいは、単に思想といってもいいと思います。改革派信仰というのは確かに主義主張であり思想でもあるんです。また、そうでなければならないのです。

 しかし、改革派信仰は、ただ単に主義主張であり、ただ単なる思想かというと、そうではないということをいいたい。主義主張であり、思想であることの以前に、ただ神の前に生きるという、そういう宗教性、もし宗教性という言葉が皆さんに余りぴたっとこないのだったら、分かりやすく言えば“信ずる”という行為。“信仰、信ずる”ということがまず全ての眼目にあるということなんです。“神の前に生きる”と言うこと。で、このコーラム・デオという言葉を使うと、もちろんコーラム・デオという概念も思想とか何とかというふうに掴まえられてしまう可能性はありますが、しかしともかく“神の御前に”という言葉を皆様がお聞きになれば、皆さん自身の心が神様の前に生きるということへと、まずそこへと動いてくると思うんです。例えば「神中心性」というと、何かすごく思想的なことを考えると思うんです。でも、“神の前に”という言葉を使うと皆さんの心がまず神様の前に来てひれふすという事が起こると思うんです。そのことが実は改革派信仰を考えるときの非常に大事なポイントなのです。ですから私としてはこの言葉を皆さんに、改革派信仰を考えてゆくときの根本的な基盤として提示したいのです。
 この様に申し上げるのは、次のような反省が私の中にあることを意味します。私は自分自身が改革派で教育を受けたとき、いろいろな勉強をさせられたんですね。それを私は大変感謝しています。掛け値なしに。でも改革派信仰というときすぐ、「それはカルヴィニズムだ」と、また「神中心性」なんだと。もちろんその通りなんですがそういうふうにすごく教育されたんです。それは良かったんですけれども、でも同時に今度はそれが単なる主義主張であり思想というふうに考えてしまった可能性があるように思うんです。改革派というと、「あ、大変良く勉強している、でももう一つ信仰がどうも」というような批判も出てくる可能性がそこに出てくるんです。ですから、確かに先程いいましたように改革派信仰というのは主義主張であり、思想性を深く持っているのですが、何よりも根本に“神の前に生きる”ということがあるんだということを強く指摘したいわけであります。
 皆さんは、私がこういうと、「じゃそれは牧田先生が自分勝手にそういうふうに考えているのか」とお考えになるかもしれません。そうではないんです。これには明確な裏付けがございます。たとえば宗教改革者のカルヴァン。ルターと並ぶ私たちの信仰の先人であります。そのカルヴァンについての研究が盛んになされているんですが、その中でカルヴァンの思想というものの特質として、今言いましたこの“コーラム・デオ(ただ神の前に)”という点がカルヴァンの思想の非常に重大な特質だということが最近指摘されてきているわけです。私に言わせれば、それは決して今日のカルヴァン研究の成果だけではなくて、じつはそれは改革派の信仰の歴史の中で以前からはっきりと考えられていたことなんです。例えばウォーフィールドという改革派の神学者がいます。世の中の人は例えば「改革派、あ、予定論だ。」とそういうような事をすぐ考えるんです。しかしウォーフィールドは、カルヴァンという人の思想の特徴は、予定論でもなければ三位一体論でもないというんです。カルヴァンという人の一番の貢献はなんであったかというと「聖霊論だ」と、こう言ったんです。「聖霊の神学者だ」と。改革派で聖霊というと皆さんはとっても不思議に思われるかもしれませんがそうではないんです。本当は改革派というのは聖霊というのをものすごく重んじた教派なんです。だからカルヴァンという人は聖霊の神学者だと、ウォーフィールドは言ったんです。この点は現在の新しいカルヴァン研究では承認されている事柄です。例えばキリスト教綱要の第三巻にはキリスト者の生活というのが出てくるんですね。そこを皆さんが読んでくださると、どういう概念が出てくるかといいますと、聖霊によるキリストとの結合という概念が出てきます。これが、カルヴァンがキリスト者の生活を考える場合に、一番土台に置いた思想なんですね。ところで聖霊によってキリストに結び合わされているということはどういうことかというと、キリストにあっての「生ける神との交わり」ということです。ということは、それは“神の御前に生きる”ということと同じことなんです。それがカルヴァンのキリスト者の生活という、私たちクリスチャンの生き方の一番の土台。全部そこから出てきているんです。そういう意味におきまして、カルヴァンにとりましてこの“コーラム・デオ”というのは彼の思想の根幹を形成しているというふうに現在ではいわれていると思うのです。それと共に皆様の手元のレジュメを御覧いただきたいのですが、そこにウォーフィールドの「カルヴァンとアウグスティヌス」という書物からの引用があります。こういうふうにウォーフィールドは言っているんです。「祈祷における我々の魂の態度、これこそ宗教的態度の頂点である。しかしながら、我々がぬかずいて立ち上がる時、祈祷においてとったあの態度を保ちつづけているであろうか。アーメンと叫ぶや否やその態度をやめてしまわないだろうか。自分の事では、全くそれとは違った気持でやっているのではないだろうか。だが、カルヴィニズムは、思惟と感情と行為の全てにおいて、祈祷においてとった、あの神への全き依り頼みの態度を保持しつづけることをまさに意味しているのである」。こういう表現はウォーフィールドにたびたび出てきます。お分かりになると思うのです。つまり、私たちが神様の前にひざまづいて、お祈りしている。その姿勢が私たちの考えや、私たちの行為や感情の全てのところにおいて、全部つらぬかれるということがカルヴィニズムだと、こう言っているのです。だから神の前に生きるということの全面的な、徹底的な展開ということがカルヴィニズムだということが分かります。

 さらに証拠を挙げます。有名なアブラハム・カイパーの「カルヴィニズム」という改革派の書物があります。これはぜひ読んでいただきたいと思うのですが、そこでこういうカイパーの言葉があります。「人の生活の全体は、神の御前にあるものとして営まれるべきものであるとの信念が、カルヴィニズムの根本思想となった」、こう言っているのです。証拠がちゃんとあるんですね。例えば、皆さん、一度「カルヴィニズム」の中に「神の御前に」という、またそれに類した言葉がどれくらい出てくるか調べてほしいと思うのです。たくさん見付けることができます。神の御前にあるということで人の生活の全体が営まれるということがカルヴィニズムの根本思想だと、こう言っています。ですから、コーラム・デオということが改革派信仰の根幹なんだと言っている意味は、決して私の単なる個人的な発明でないという事がお分かりになると思うのです。それはウォーフィールドやカイパーといった私たちの重要な神学者たちの共通の認識であったことがお分かりになっていただけると思うのです。
 さて、たぶん他教派からおいでになった方々は「そしたら別に、改革派もルター派もそうかわらないじゃないか。福音派もかわらないんじゃないか」という気持ちをもたれると思うのです。僕は基本的にはそうだと思うのです。つまり改革派というのはなにか特殊なキリスト教の一派というものをやろうとしているわけではないんです。改革派というのはなにか、こっちにこうあって、それとは全然異質な、全く新しいキリスト教の特殊な一派をたてようとする、そういうものではないんです。そうじゃなくて、キリスト教そのものが改革派なんです。その事をもっと説明しなければならないんですけど、改革派であるということはキリスト教信仰の徹底化なんです。あるいは、別の言葉で言うと、どの教派であったとしても皆、信仰というのは、最終的には神の前に生きることなんです。ただ、その場合に、神の前に生きるということの、その深さと、その広がりというものについての全体的な、それの徹底的なあり方というのが改革派なんです。こういうふうに説明すればお分かりになると思うんです。ある領域になると神の前に生きていないというようなことになってしまうとか、あるいは、その深さにおいて神の前に生きるというのが非常に浅いとか、そういう事じゃなくて、神の前に生きるということを徹底的に深め、徹底的な広がりの中で生きぬくんだということなんです。ですから先程の言葉に良く注意してください。カイパーは「人の生活の全体は」とこう言っているんです。人の生活の全体は神の前にあるのだ、あるいは先程のウォーフィールドの言葉を使えば、カルヴィニズムというのは、思惟と感情と行為、考えること、思うこと、行うことの全てにおいてと、こう言っているのです。全てにおいてあの、神への全き依り頼み、コーラム・デオ、あの祈りの態度における神様の前にという事を保ち続けることだと、こう言っています。だからキリスト教の信仰の全面的な展開というのが改革派だと理解してくださっていいと思うのです。これがまず皆さんに申し上げておきたい点なんです。
 これは改革派で育った人からすると、例えば二十周年記念宣言を見ますと、こういう言葉が出てくるんです。改革派信仰というのは礼拝的な人生観だと、こういう言葉を使います。礼拝的な人生観ということはどういう事ですか。礼拝、こうして礼拝するときに我々はまさに神をそこで崇め、礼拝しているんです。神の前に生きているわけでしょう。そのありかたを人生の全てにおいて生きるということなんです。だから結局そこで言っている意味はコーラム・デオということの全面的な展開ということなんです。そうすると、カルヴィニズム、改革派信仰ということの大切な本質を握ることができるんです。そこから出発しないと駄目なんです。思想のほうから出発してしまいますと、改革派信仰の持っている生命の核という部分を見逃してしまう可能性があるんです。むしろそこから出発しなければならないんです。ですからまずその事を最初に申し上げたい。
 ですから本論の1は改革派信仰の核心としてのコーラム・デオ「ただ神の前に」の持っている意義ということを第一のテーマにしたわけです。


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