改革派信仰とは何か(4)


4「キリスト者生活の聖書的徹底化


−Coram Deo (神の前に)の行為的倫理的側面」


 最後に、そして四番目になりますが、キリスト者生活の聖書的徹底化。今度はいわば信仰と行為の問題をお話して終わりたいと思うのです。神様の前に生きるということは、神の前に信仰告白するんですけど、今度は神様の前に正しく信仰告白をするということは同時に神の前に生きるという人間の行為ということが問題になるということです。
 これも言っておいたほうがいいですね。皆さん、こういう誤解があるんです、改革派について。改革派と言うと、大体一所懸命聖書を勉強して、良く神学を勉強しているけど、生活は駄目だ、というのがよく言われることなんです。改革派はちっとも信仰生活がなってない、大酒のみだとか、いろいろ言われるわけです。僕は飲みませんけど。そういうふうに言われるんです。そうすると、「ああ、改革派っていうのはそういうのか。」と判断してしまうのです。これは改革派の歴史の伝統からいったらまったくの間違いです。これは、はっきりと言っておきます。それは日本基督改革派の弱点でありうるかも知れませんけれども。でも日本の改革派でも創立宣言を見ますと、我々は日本に聖書的な教会を作るんだ。一つ信仰告白、それから一つ教会政治、今日はしゃべりませんが長老主義政治ですね。最後の三つ目は、一つ善き生活、とこう言ったんです。つまり、三本柱の一つにちゃんと善き生活と言っているんですよ。これは改革派の伝統で考えてるんです。つまり改革派の伝統っていうのは昔から善き生活という事を物凄く強調したんです。これを皆さんの頭の中にたたきこんでほしいと思うんです。なぜか。これはこういう理由なんです。ルターは先程言ったように、信仰義認ということを言ったでしょう。信仰義認と信仰の行為ということを、実はルターという人自身は非常に重んじたんです。ところが、このルターの少し後でメランヒトンという人が出てくるんですが、注意してください、こういう微妙な言い方をしています。ルターは「信仰によって義とされたものからは善き行いが生まれる。」分かりますね。メランヒトンはこう言ったんです。「信仰によって義とされたものは善き行いが生まれるし、それは善き行いがなければならない。」と言ったんです。ほんのちょっとした差ですね。善き行いがなければならない。これは必ずしも間違っているわけではないんですよ。しかし無ければならないとメランヒトンは言ったものだから、ルターの直系の弟子たちは反発したんです。「それはカトリックの功績思想に似ている。信仰義認というものが駄目になってしまう。」そう言って、このことについて非常に警戒心ができてしまい、信仰義認をさらに強調して主張するという事が歴史の中で起こったのです。そのために、ルター派の場合には、どうしても行いという面で弱体化するという事が起こったのです。それからもう一つの事情があるんです。良く考えてみてください。昨日の山本さんの話はここで大変重要なんですが、山本さんは昨日こういう事をおっしゃったんです。ルター派の場合には、非常に神秘主義的傾向が出てくる。非常に鋭い指摘なんです。なぜかというとこういうことなんです。信仰によって義とされる、という時、何を考えているかというと、私は罪人だ、という、まず私があるでしょう。自分は罪人だ、という、この私がどうしたら救われるか、ということが問題なんです。私がどうしたら救われるか。言いかえれば、私はイエス様の義によってのみ救われる、これはいいんですよ。でもその時に、絶えずどうしたら救われるかという問題なのです。ですから、どうしても人間のほうへの関心が強くなることがおわかりになりますね。それともう一つは、その関心が、例えば善き行いということを言った場合にも、自分を巡る問題、個人的な関心になるんです。で、自分の救いとか、自分の個人的なことになると、しらない間に目が段々自分自身のほうに下ってきて、段々自分の心の中を見て、神秘主義化してくるという道筋がお分かりになるでしょう。ピボットが、支点が、人間にありますからそうなってしまうのです。そして特に後期のルター派というのはだんだん形式化してきます。その反動として余計自己自身への内面化の傾向も強くなる。それがいわゆるルター派の敬虔主義運動が出てきた理由なんです。神秘主義的な方向に。そうするとどうしても行いというよりも情緒的なことが強くなるんです。意志的よりも情緒的なことが強くなるんです。ところが改革派は、どうかというと、聖書の権威性を重んじたという事もあるんですけど、聖書の全体性という事を言いましたね。実はもっと先を言うと、「神」という点での問題があるんです。先ほど私が言いました「生ける神の前に」、という点でルター派の場合にはどちらかというと「生ける神の前に」、改革派の場合には「生ける神の前に」、そこに強調点があります。生ける神の「前に」、と言うのか、「生ける神」の前にと言うのか、微妙な差があるんです。つまり改革派の場合には、生きる神の、と言う、これが改革派がいう神中心性ということの意味なんです。つまり、「生ける神」から出発していくのか、あるいは「前に」から出発するのかではやはり違うんです。もし生ける神から出発するとなると、「神の前に生きる」、と言うときにもその方向性は向こうにつまり神のほうに引力がいくんです。そうすると神の前に生きるという行為の問題というのは非常に重要な意味を持ってくるということがお分かりになるでしょう。これが改革派の中で善き生活ということが必然的に強調されてくる理由なんです。私が救われるというのはそうなんだけれど、救われたときに今度神のほうに引き付けられていくわけで、その神の前にどのように生きるのか、その神のために何をするのか、この事が非常に重要なことになってくるのですね。その問題をさらに展開すると、ほんとうにいろんな問題を考えて展開しなければなりませんが、一つの事だけ言います。
 契約ということを改革派の信仰は昔から言うんです。これがたいへん大切なことです。これが改革派信仰の信仰理解の特色ですね。契約というのはどういう事かと言うと、契約というのは交わりですから、神様が人間のところにわざわざおいで下さって、そして人間との交わりに入って下さる。契約を結んで下さる。契約というのは友好のしるしですから、交わりに入って下さる。だから私たちがイエス様を信じると神様の恵みの契約の中に入れられる、交わりの中に入れられる。これ、神様の愛なんですね。ところが今度、契約ということは同時に約束ですから今度その契約の中に入れられると契約の義務がある、なさなければならないことが起こりますね。契約という考えには恩恵性が土台にありますが、同時に責任が伴うんです。とすると、確かに私たちが神様の徹底的なあわれみの中にあって神様の交わりの中に、契約の中に入れられるんだけれども、契約の中に入れられたものは今度はどうするかというと、この神様のために律法にしたがって生きるという事が重んじられてくるんですね。契約的な義務の問題。だから改革派の信仰というのは絶えず意志的な方向を強く持つわけです。あるいは責任性ということが非常に強調されてくるんです。こういう事がいよいよ人間の行為ということ、善き行いという事が重視される理由なんです。丁度ルター派教会の出身の方がおられますから聞いて下さるといいと思うんですけれど、ルター派の律法の理解というのはこういう事です。律法というものは、私たちはそれを守れないんで、それによって私たちが罪人であることを示すためにあるんだ。だから律法によって私たちはいつも罪を示されて、イエス・キリストのもとへと導かれなければならない。これがルター派の律法についての強調点です。改革派はこの点も言いますけれど、これは律法のネガティブな面であって、改革派は律法においてさらにポジティブな面、つまり善き生活の基準としても律法の用法を強調するのです。皆さんもよくご存じでしょう。ハイデルベルク信仰問答にあるように、律法は私たちの感謝の生活の基準、つまり律法は、おまえ駄目だぞ、おまえ駄目だぞと罪を指摘し叩くだけじゃなくて、救われた者がその戒めに従って生きるということ。だから改革派は、感謝の生活の基準としての律法を非常に強調するんです。これは善き生活の強調です。だからどういうふうに考えても改革派の信仰の理解の中には、善き生活という人間の、クリスチャンとしての行為のありかたというものが鋭くとらえられているのです。つまり非常に意志的な人間の生き方、こういう事を非常に強調するということが出てくるわけです。だから情緒的なことに止まっていないんです。ここに特徴がある。


 それからまだあります。いいですか、いま言いましたように神の前に生きるということについての意志的な傾向が非常に強いんですが、神の栄光のために、とこう言うんですが、それが非常に広い広がりを持つんです。例えば、大変恐縮ですが、例えば前の方に立っている私が神様だと、こうしますね。そして後ろのほうに座っておられる恵美子さんが罪人であって、救われた者として神様としての私を見るとしますね。あなたは救われた、そして神様としてのわたしのために生きるとする。でももしそこからだけ見ると、後ろのほうに座っていらっしゃる恵美子さんの視野ではどこまで見えるかということなんです。隣の方、前の方、その前の方は見れると思うんです。そして私も見えるでしょう。けれども恵美子さんの後ろの方に誰が座っているのか、何があるのか全然見えないはずなんです。ところが、もし視点をこちら側に移すとしますね。つまり、前のほうの講壇に立っている私の側にです。そうすると私の方からは、恵美子さんだけでなく、恵美子さんの前の人も見えるけど、後ろの人も見える。その背後に何があるかも見える。この部屋の全体に何があるかも見えるんです。このことによってもわかるように、神の側に視点をすえて神の前に生きることを考えるとき、全体的広がりの中で生きることを見つめることが可能になってきます。人間の側に視点をすえて、どんなに熱心に神を見つめ、神の前に生きるということで熱心であったとしても、その視点にとどまっている限りは、やっぱりそれは自分と自分のまわりの世界にとどまっているのです。視野が狭くなるのです。つまり神の側の視点にくるなら、全部の事が視野の中に入ってくるんです。この世界とこの歴史とこの社会と、あらゆる事柄が視野に入ってくるんです。ですから聖書の真理の全体性ということも重要になってくるのです。そうすると、私たちが神の前に善き生活をすると言う場合に、善き生活の単に個人的な善き生活だけじゃなくて、社会生活や芸術の生活や学問の生活や、いわゆる改革派が言う有神論的人生観世界観が出てくるんです。あらゆる領域において神の栄光のために善き生活をするという事が出てくるんです。だから改革派信仰が盛んなところは大体非常に学問も進んだとか、文化が進むとか、あるいは政治的には民主化が進むとか、こういうことになるんです。例えばルター派の地域というのはだいたい歴史的には保守的になるんです。なぜかというと、どうしても自分を巡る問題になるからです。そうすると社会的な生活とか国家の問題という事は、関心があったとしてもどうしても弱まってしまうんです。改革派の視野で見た場合には個人だけじゃなくて社会的な問題も歴史ということについても視野の中に入ってくるんです。歴史ということから言うと、こういう点もあるんです。例えば改革派では旧約聖書を度々説教するんです。ルター派の場合には旧約聖書の説教が比較的に少ないということがあるんです。もうこれは歴史的な事実であり、伝統なんです。なぜ改革派が旧約聖書の説教が多く、他の人達は少ないか、これも今のことと関係があるんです。神中心的視野をもつと、歴史の全体というものが見えてくるんです。つまり歴史というものに非常に強い意識がでてくるんです。ですから当然歴史というものへの感覚が強くなるんです。だから政治的な意味での歴史的な責任という問題が強い自覚に上ります。確かに他教派でも旧約聖書から説教されますが、多くの場合、私の救いに関連してアブラハムの信仰のありかたとか、ダビデの体験などという、個人的なところでとりあげられ易いのです。改革派はそうじゃなくて、神様の恵みの契約の歴史、その歴史の全体性をとらえながら聖書の福音を旧約聖書の場合にも語ります。そういう差になって現れてきます。だから改革派信仰の場合には、歴史的な広がりも持つし、空間的な広がりも持っているんです。一番最初のテーマを思い起こしてほしいんです。それは、改革派の信仰とは何かというテーマでした。それは神の前に生きるということの人生の全体における生き方。あるいは祈りの姿勢における私たちの思惟と行為と感情という、全てのことにわたる全面的生き方だということ。だから礼拝的な人生観なんです。歴史の全てにおいて、空間の全部において、あらゆる時に、あらゆる所において礼拝的に生きるということ、それが善き生活ということの持っている広がりなんです。これが有神論的人生観とか世界観という言葉の意味しているところです。 シンプリシティの問題もレジュメに書いてあるんですが、簡単に触れておきます。これはこういう意味です。わたしたちが改革派信仰という場合、生活のシンプルさという事を考える必要があるということを言いたいんです。なぜかと言うと、これを話し始めるとまた三十分も話さなければならないのですが、一言で言ったらこういうことになるんです。改革派というのは聖書というものによって全部規制するということでしょう。例えば礼拝のあり方。ヨーロッパに行かれて教会に入られて、その教会がどの教派かということを当てるのはまったく簡単ですね。教会の中に入られて、それが改革派かルター派か、あるいはカトリックかを見定めることはまったく簡単です。煙がぼうぼう、ろうそくぼうぼう、これはカトリック。教会の中に入ってみて、前のほうに祭壇らしきものがあって、あるいは、最後の晩餐の絵があったり、そしてろうそくが二、三本立っている、これはルター派。何もなく、がらんどうで講壇だけがある、これは改革派。単純に分かるんです。つまり、ルター派の場合には「聖書に言われていないことは許されている」と考えるわけです。これはルター派の原理なんです。聖書に禁じられていないことなら許されているんだから、ろうそく少しくらい立ててもいいし、聖像でなければ、いわゆる最後の晩餐の絵などがあってもいいんです。ドイツのローテンブルグなんかに行くと、ルター派の教会に、リューメンシュナイダーの最後の晩餐の木彫りの像なんかがありますね、まあ素晴らしい芸術作品ですけど。それは聖書に禁じられていないからやってもいいんです。改革派は違うんです。礼拝の中でなされることは「全部基本的に聖書に基礎付けられなければならない」という原理があるわけです。聖書に基礎付けられていないものは排除されなければならないという原理があります。ですから聖書的に徹底的にやるわけです。そうすると会堂の構成というのは非常にシンプルです。この部屋も改革派的ですよね。余分なものは何もおいてないんですから。そしてそのような礼拝のあり方というのはそのまま皆さんの生活に反映してくるんです。つまり生活も非常にシンプルになるんです。仰々しく飾ったり、けばけばしくするのではなく、シンプルな生活になるんです。これは全部のことに関係してくるんです。それから文章の方も、カルヴィンの文章が非常にシンプルだといわれています。文章自身も非常に明晰な文章になる傾向があります。説教も改革派の説教は明晰な説教なんです。生活のあり方からその人の服装までシンプルさというのが改革派の一つの特徴なんです。これは、今の豊かな時代にはとても大事な生き方の原理だと思います。ダッチカウントという言葉があるでしょう。けちだと言う、あれは違うんです。ダッチというのはオランダ人、カルヴィニストですが、カルヴィニストはけちじゃないんです。それは質素さという問題です。生活のシンプルさという問題です。それがダッチカウントなんです。それが誤解されて、けちだと言われるんです。あのダッチカウントという言葉には改革派信徒の信仰の生活の原型があるんです。非常に質素でシンプルな生活をするという意味があるんです。そこまで礼拝のありかたというものと、生活のあり方、その人のものの考え方、それから芸術や文学の問題まで含めて影響というものが生み出されてくるんです。まあこの問題はここまでにしておきます。


 だから改革派の人は信仰生活が駄目だというのは本当は嘘なんです。駄目だとすると私たちの信仰の把握の仕方が駄目だったんです。そうじゃなくて、カルヴィンが言っているように、カイパーやウォーフィールドが言っているように、コーラム・デオという、神の前に生きるということの全面的徹底的な聖書的展開という事が改革派信仰の本質であります。まだ幾らかのことを話す用意をしましたがここまでにしておきます。


(祈り)


 愛する天の神様、この午後の疲れやすいひとときですが、愛する兄弟姉妹たちが本当に熱心に学んでくださって、そこに神様の深い導きがあることを覚えて感謝致します。神様、私どもは改革派信仰についていつも考えていますけれどもどうぞこの事が私たちのひとりよがりや、単なるおごりであることがありませんように。本当に私たちがあなたのみ前に生きることにおいて、聖書が示すところを徹底的に生きることができ、人生のあらゆる所で、あらゆるときに神の前に生きることができますように。そのようにして最も深く、また真実に主にあるものとして歩むことができるように導いてください。しもべの語りましたところ、必ずしも充分ではありませんけれども愛する兄弟姉妹たちがそこからどうか今後の自らの信仰の歩みまたは大切な事柄を学んでくださることができるように、主がこれをお用いくださいますようお願い致します。そしてこの講演を持ちましてこの札幌伝道所の奉仕のすべてを終えますけれども、神様どうかこの教会を祝福してくださって、この教会に与えられている、北海道全体について持っている責任をはたすことができますように。神様どうぞこの教会を祝福し、その大いなるみわざのためにこの教会をお用いくださいますように。そして愛する兄弟姉妹たちが神様によって励まされて、この重荷を喜んで背負い、そのみわざにあずかることができるようにお願い致します。感謝しまして、イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


〈あとがき〉

 この小冊子にまとめられたものは、一九九〇年十月十四日(日)に、日本キリスト改革派札幌伝道所で行った講演です。当時同伝道所会員であった中村浩明兄がテープおこしの献身的労をとって下さり、文書化することができました。手早くテープおこしをして下さったのに、私の方で忙しさに追われて原稿に手を入れるのが遅くなり今に至ってしまいました。責任は私にあります。おわびとともに、中村兄に心から感謝致します。また、講演を熱心に聞いて下さり、本当に楽しい主にある交わりの機会を与えて下さった札幌伝道所の皆様にも感謝致します。
 講演自体はかなり自由に話したために、あちこちに論理の飛躍などがあったり、表現の不十分さやくりかえしもあったりして欠点が目につきます。しかし、講演の生の雰囲気が残っていますので、これはこれでよしとしてそのままにいたします。少しでも、皆様のお役に立てるのであれば本当に感謝です。
             

一九九二年三月三日
             牧 田  吉 和 


 この講演記録は、上福岡教会会員の中村裕明氏がタイプされたものを牧田吉和牧師の許可を得て、神学講演記録として公開しています。

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