『第1回 青春の日々に


 今回のテーマは、『青春の日々に』です。神の御言葉は、旧約聖書コヘレトの言葉第12章1節です。
 

 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。

  苦しみの日々が来ないうちに。

 『年を重ねることに喜びはない』と

  言う年齢にならないうちに。」


 人生とは、なぜ、こんなにも短いものなのでしょうか。
 年を経るに従ってその思いは深くなります。そして、先が短くなりつつある人生の中で、私も人生の重さをかみしめております。

 さて、コヘレトすなわち伝道者は、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」と言っています。多くの人は、宗教を信じるのは年老いてからでも遅くはない、と言います。若いときに神に頼るような生き方をしなくても、自分は自分でやれるという自信をもっています。しかし、はたしてそうでしょうか。

 10月29日の朝日新聞「天声人語」欄の中に、アメリカの女優だったマリリンモンローのことが出ていました。
 「私、しあわせ」とマリりンモンローは言った。「まだ、34歳だし、人生はまだまだでしょ。仕事の上でも、個人的な生活においても、もっと優れた人間に、そしてもっと幸福な人間になれるだけの時間がね」。まだ、まだ....しかし2年後彼女は死を迎える」。
 モンローは、老いを知ることなしに、この世から消えていきました。彼女の人生設計の中では、「人生はまだまだ」でした。しかし、残された時は、あと2年しかないということを、彼女自身知る由もありませんでした。

 人生の幸せは、将来の夢を描くことにではなく、青春の日々に、若い日に、天地宇宙、万物をお造りになった創造者を知ることにあります。そして、その創造者である神を信じ、畏れ敬い、その神のみ言葉に従うことです。

 年を重ねて、生きることに何の喜びもないという日が訪れる前に、青春の日々が輝きをもっている間に、創造者を信じようではありませんか。あなたの幸いはそこからスタートするのです。


『第2回 愛は惜しみなく与える


 今回のテーマは、「愛は惜しみなく与える」です。神のみ言葉は、新約聖書ヨハネによる福音書第15章11、12節です。


 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合なさい。これがわたしの掟である。」

 救い主イエス・キリストは、「互いに愛し合なさい。これがわたしの掟である」と、弟子たちに教えられました。互いに愛し合うことは、とてもむずかしことです。それは、自分の子供を愛せずに幼児虐待に走る親が増えているとか、夫婦間暴力で日々地獄のような生活に追い込まれている人が多くなっているなどの報道によっても、その一端がうかがえます。

 親が自分の子を愛し、また、夫婦が互いに愛し合って過ごすことは、とうぜんのことです。そのとうぜんのことが出来なくなってしまっているのが、今の世にある悲しむべき現象です。救い主イエス・キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」とおっしゃいました。これは、愛を失った悩み、痛み、苦しみの現実を、処世術を駆使してくぐりぬけなさい、ということではありません。

 キリストは、罪ある人類の身代わりとなって、父なる神から十字架の刑罰を受けられました。罪ある者たちのために犠牲となられたのです。この自己犠牲なしに、真実の愛はありません。多くの人は、自己中心、自己保存のために生き、自分の利益となる範囲内だけで愛を追い求めています。それらの人にとって、「愛は惜しみなく奪う」のです。

 言葉を換えますと、出来る限り自己犠牲を少なくして愛せる道を追い求めているのです。しかし、真実に愛するためには、自分の命を犠牲として救いを得てくださったキリストの自己犠牲の愛を受け、愛に包まれ、愛に生かされることが先決です。

 自己中心、自分の利益追及中心の罪を打ち砕かれ、キリストを救い主と信じ、罪を悔い改めてスタートするのです。そのとき、キリストが愛されたように、自己犠牲の愛で互いに愛し合うことができるのです。そのことを通して愛する喜びを体得することが出来るのです。真実の愛は、「愛は惜しみなく与える」ことからスタートします。


『第3回 天体の輝き


 今回のテーマは、「天体の輝き」です。神の御言葉は、旧約聖書ヨブ記第38章31節から33節です。

 「スバルの鎖を引き締め
  オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。
  時がくれば銀河を繰り出し
  大熊を子熊と共に導き出すことができるか。
  天の法則を知り
  その支配を地上に及ぼす者はお前か」。


 今日、11月18日の未明には、しし座流星群の来襲ということで、昨晩から、それを観察しようと待ち構えている人々の様子が、テレビで放映されていました。私も、見たいと思いながら、眠りに落ちてしまい、一つも見ることが出来ませんでした。

 また、16日には、ニューヨークのマンハッタン南部を、スペースシャトル・デイスカバリーで、二度目の宇宙旅行をしたジョングレンさんや向井千秋さんなどが、パレードして大歓迎を受けました。

 あの宇宙船の窓から、ハイヴィジョンカメラで写し出された、青く、大きく、美しい地球に感動しました。しかも、あのように強大な物体が、空間に浮いているということと、それが、太陽の回りを規則正しく1年約365日で回っているということに、もう一度新鮮な驚きを覚えました。

 しし座流星群も、33年周期で地球に近づくテンペル・タットルすい星のちりなのだそうです。ここにも自然の中に刻み込まれた法則があります。子供の頃、冬の冴えたきれいな夜空を見上げて、なぜ、こんなに重いものが空間に浮いたままで流れ星になならいのだろうという、素朴な疑問を抱いたことを思い返しました。

 聖書は、「初めに、神は天地を創造された。」という言葉で始まっています。創造者である神は、万物と共に宇宙の法則も造り出されました。時間という法則も神に造り出された秩序です。神はお造りなったすべての物をご支配なさっておられます。宇宙とその内にある法則は、偶然によって生まれたものではありません。神がお造りになったものです。私たちは今、科学の力によって、神の創造と支配の力、摂理の力を確認出来るように導かれているのです。

 忙しい毎日ですが、時には、空を見上げ、山や海を、また、野に咲く花を見て、その背後で生きて働いておられる全能の創造者、支配者である神を賛美しようではありませんか。


『第4回 キリストの降誕』


 今回のテーマは、『キリストの降誕』です。神の御言葉は、新約聖書マタイによる福音書第1章18節です。


 「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」


 今年も12月25日がクリスマスです。テレビを見ていましたら、すでに、サンタクロースが来たということです。赤いトンガリ帽子と赤い服に身を包み、白い髭をつけたあのサンタクロースが、大きな袋をかついで飛行機から下りてきました。

 日本人の中には、クリスマスと言えば、あのサンタクロースのお祭りであると考えている人がいます。無理もありません。聖書によってクリスマスがキリストの降誕をお祝いする日であると、聞いたことのない人があまりにも多すぎるからです。

 クリスマスは、サンタクロースのお祭りではありません。救い主キリストが、天からこの地上にお降りになったことをお祝いする日です。神の永遠の御子として、永遠からおられたキリストが、救い主となるためにこの地上にお降りになったのです。それも、人間の力を超えた、聖霊の力により、処女マリアの胎内に宿るという仕方においてです。「聖霊により身ごもっている」とはそのことです。

 私たちは生まれる前にはどこにもいませんでした。ところが、キリストは人の姿を取ってこの地上にお生まれになる前に、すでに存在しておられたのです。そのキリストがこの地上においでになるときに、超自然的な仕方で、聖霊の力によってマリアの胎内に宿り、お生まれになったのです。

 ですから、キリストがお生まれになったことを、降誕、すなわち、降って生まれるというのです。神の御子が、救い主としてこの世に降誕されたのですから、世界中の多くの人々がお祝いするのは当然です。あなたも、教会のクリスマス礼拝に出席して、本当のクリスマスをお祝いしてください。


『第5回 イエスと名づけなさい』


 今回のテーマは「イエスと名づけなさい」です。神の御言葉は、新約聖書マタイによる福音書第1章21節です。

 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うためである」。

 このところは、天使がマリアのいいなづけの夫ヨセフに対して、夢に現われて語り告げた言葉です。マリアが男の子を産むこと、その男の子にイエスという名前を付けなさい、ということでした。聖霊の力によってマリアの胎内に宿った子は、男の子で、生まれたときには、イエスという名を付けなさい、というのです。生まれることも、名前も、神の側からの啓示によったのです。

 なぜ、イエスという名が付けられるのでしょうか。それは、「自分の民を罪から救うから」です。イエスとは、救う方、救い主という意味なのです。何から救うのかと言えば、「罪」からです。ですから、クリスマスに、この世に降誕されたキリストに目を向けるとき、忘れてならないのは「罪」といういちじです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第3章23節で、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と、教えています。

 人は「皆」とは、人間の姿をとってこの世にお降りになった罪のないイエス・キリストを除いて、普通の仕方で生まれたすべての人間は、ということなのです。その人間の中に、あなたも、私も入っているのです。神の目からするなら、あなたも私も、生まれながらの罪人なのです。もし、罪のあるままで一生を終えるなら、その終わりは永遠の滅びです。

 このような罪と永遠の滅びの中から、あなたを、そして、私を救うために、キリストは救い主となって姿を現わし、十字架について罪の贖いを成し遂げ、信じる者の救いを獲得されたのです。信じる者は、救い主の一方的な恵みによって救われます。「自分の民」とは、真の信仰で信じるすべての人のことです。

 救い主イエス・キリストは、信じるあなたの救い主なのです。


『第6回 ダビデの王座につく』


 今回のテーマは、「ダビデの王座につく」です。神の御言葉は、新約聖書ルカによる福音書第1章32、33節です。

 「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終ることがない」。

 これは、イエスの母となるマリアへ、天使ガブリエルが語り告げた言葉の一節です。

 これから生まれてきて「イエス」という名を付けられる男の子は、父ダビデと密接な関係にあることが証しされています。父とは、先祖のことです。先祖ダビデと密接な関係にあるというのです。実は、ダビデは、紀元前約1000年頃にイスラエルを治めた統一王国の偉大な王でした。その王であるダビデに、神は、預言者ナタンを通して御心を示されました。

 その中でこう語り告げられています。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに据えられる」(サムエル記下7章16節)。ダビデは、ナタンの言葉を聞いた後で、「あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜わりました。このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。」と言っています。ダビデは自らの王国と王座が、息子のソロモン王だけに関わるものではなく、「とこしえに続く」ことを悟っていました。

 その「とこしえの王座」に着き、「とこしえの王国」を治める王として、キリストは聖霊によってマリアの胎に宿り、この世にお生まれになったのです。そして、イエスすなわち救い主という名を付けられました。キリストの降誕は歴史の事実です。そこに神の偉大な救いの計画とその実現を見ることができます。

 このことを信じてクリスマスをお祝いいたしましょう。


『第7回 神を賛美するクリスマス』



 今回のテーマは『神を賛美するクリスマス』です。神のみ言葉は新約聖書ルカによる福音書第2章20節です。

  「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ賛美しながら帰っていった」。

 救い主イエス・キリストがお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに現われて、そのことを告げ知らせました。羊飼いたちは、さっそく、ベツレヘムの町に急いで行き、マリアとヨセフまた飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。そして、天使が語り告げてくれたことが本当だったと人々に知らせ、幼子誕生の事実を確認し、神をあがめ賛美しながら帰っていったのでした。

 さて、ここで、世界的に有名な指揮者である小沢征爾さんが、若いときに書かれた『ボクの音楽武者修行』という本に出てくることをご紹介いたします。

 その本の中に「クリスマスと大晦日」という小見出しがあるのですが、小沢さんがある村で出会ったクリスマスの様子が描き出されています。昭和37年、西暦1962年に出された本ですので、日本ではクリスマスといえば、大変な馬鹿騒ぎをした時代です。

 フランスでもそうだろうと想像していたのですが、まったく違っていました。村の人は夜の12時近くなると、雪道を歩いて教会に集まったのでした。人々は教会に着いて、楽器をかかえてきた人々は楽器で演奏し、コーラスを歌う人は、男2人、女40人編成という混成合唱団で歌いました。このまったくの素人演奏を聞き、小沢さんはこう感じたのでした。「それにしても珍妙な音がするのでぼくは思わず笑いそうになった。しかしあわてて笑いを噛み殺した。周囲の人たちが感激にしびれるような無心な顔で、音楽に聞きほれているのをみたからだ。」、、、「ぼくはその時、新しい音楽の意味を感じた。それは、いってみれば、神様のためにだけある音楽」というのです。

 小沢さんの音楽の感性の鋭さが、クリスマスに集った村の人々の心の奥深くにあるものを読み取ったのです。村の人々は心から神を賛美していたのです。

 あのベツレヘムの羊飼いたちも心から神をあがめ賛美しました。そのように、クリスマスは神を賛美するためにあるのです。あなたの心にクリスマスの賛美が溢れますように期待しております。


『第8回 イエスの焼き印』



 今回のテーマは、『イエスの焼き印』です。神の御言葉は、新約聖書ガラテヤ信徒への手紙第6章17節です。

 「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」

 使徒パウロは、自分が身にイエスの焼き印を受けている、と言っています。では、焼き印とはどういうものでしょうか。

 牧場で、放牧する牛のお尻に焼き印を押している光景を、デレビなどで見たことのある方は多いと思います。第一に、焼き印は目に見える印です。それによって、牛の所有者がだれであるかがはっきりします。

 パウロが、身に焼き印を受けたというとき、それはもちろん、肉体に外から見える焼き印を押されたということではありません。目に見えない心に、焼き印を押されたということです。そのことによって、パウロの所有者は救い主イエス・キリストであることが明かになっているのです。パウロはキリストのもの、神の子どもとなっていたのです。

 キリストを信じ、キリストによって救いを与えられ、キリストのものとして、パウロはこれまで使徒として働き続けてきたのです。

 第二に、焼き印は、神の御言葉と聖霊によって、心に押されていますので、それは、救いが封印されていることを現わしています。すなわち、救いは決して一時的なものではなく、永遠のものであることを証明し、保証しているのです。

 神の御子イエス・キリストを、真の信仰をもって救い主と信じたすべての者の心に、イエスの焼き印はしっかりと押されています。それは、決して消えることのない印です。救いは神のもの、イエス・キリストのものです。それゆえに救いは永遠です。その永遠の救いを信じたあなたは、一方的な恵みによって、救いが心に与えられ、植え付けられているのです。あなたの心に押されたイエスの焼き印は、決して消えることはありません。


『第9回 一瞬の祈り』


 今回のテーマは、『一瞬の祈り』です。神のみ言葉は旧約聖書ネヘミヤ記第2章4節、5節です。

 「すると王は、『何を望んでいるのか』と言った。わたしは天にいます神に祈って、王に答えた。『もし僕がお心に適い、王にお差し支えがなければ、わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください。町を再建したいのでございます。』」

 これは、ネヘミヤが、ペルシャ王アルタクセルクセスに仕えていたときの出来事です。ユダからハナニという人と数名の者が、ネヘミヤのともに来て、ユダとエルサレムの荒廃している状態について伝えました。

 このニュースを聞いて、信仰あついネヘミヤは、エルサレムに帰り、町の城壁とエルサレム神殿を修復したいという願いにかられました。しかし、これを実行するためには、最も大きい難関である、アルタクセルクセス王の許可を得なくてはなりませんでした。今、その大事な話し合いの最中なのです。ネヘミヤ自身とユダの同胞の将来が、この話し合いの結論がどうなるかにかかっていました。

 ネヘミヤは、その話し合いの最中に、天にいます神に祈った、と言っています。これは、一瞬の祈りといっても間違いではありません。ネヘミヤは1章5節から11節にかけて、祈っています。それは一瞬の祈りではなく、ある程度の時間をかけた祈りでした。

 ところが、今は、王を前にして話し合いの最中なのです。祈りのために特別に時間を取ることは出来ません。ネヘミヤは、信仰の力を集中し、心のすべての思いを一つにし、一瞬の祈りを天にいます神にささげました。そして、その祈りが聞かれました。


 祈りは、ある程度時間をかけて、整った言葉で、きれいにささげなくてはならないと考えて、祈ることを躊躇するクリスチャンは多くいます。祈りは、言葉を飾らなくても、短い時間でもささげられます。一瞬のいのりでも、み心に適うなら聞き入れられます。真の信仰によってささげる祈りは、天にいます神に、キリストの仲保を通して確実に聞き入れられます。

 あなたは、どのように祈っておられるでしょうか。


『第10回 キリストの主権』


 今回のテーマは、救いにおけるキリストの主権です。神の御言葉は、ヨハネによる福音書第5章21節です。

 「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」

 信仰生活をしていて、大変に困ることは、自分が救われているかどうか分からなくなってしまうときです。自分がほんとうに救われているのか、いないのか、ということに悩み始めると、毎日不安でたまりません。「先生、私は本当に救われているのでしょうか」と質問される場合があります。また、「あなた、本当に救われているの」と質問されて、救われているという確信がなくなり、自分は救われていないんだという結論を出し、教会を去り、信仰生活を捨てた方がある、ということを耳にしたことがあります。

 ですから、信仰生活を営む上で、救われているという確実な根拠をしっかりもっていることが非常に大切です。

 救いは、どこから出てきたのでしょうか。それは、恵み深い、愛に満ちた父なる神と子なる神キリストとの約束から出てきたのです。換言すると、神の永遠の恵みの選びから出てきたのです。救いは神のものであって、人間のものではありません。

 人間は、その救いを信じることによって、神から一方的な恵みとして、救いをいただくのです。神の御子キリストが、「子も、与えたいと思うものに命を与える。」と宣言しておられます。その救いにおけるキリストの主権に、すなわち、主権的なご決断に救いの根拠があるのです。

 ですから、自分がもっとしっかりしなければ救われない、という考えを捨ててください。キリストがなさった主権的な救いの決断を、キリストがお変えにならない限り、救いは決してなくなることはありません。たとえ、どんな境遇の中でも、救いはキリストにあって永遠です。


『第11回 疲れた魂を潤す』


 今回のテーマは、『疲れた魂を潤す』です。神の御言葉は、旧約聖書エレミヤ書第31章25節です。

 「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。」

 主なる神は、預言者エレミヤに対して、新しい契約をお示しになりました。契約とは、約束とも言い換えられる言葉です。

 私たちは待ち合わせの約束して、相手がその約束を破り、長い間待たされたときには、少なからずイライラしてしまうのではないでしょうか。その反対に、やむをえない事情で相手を待たせたときには、ほんとうに済まないことをしたと良心がうずきます。

 お互いが約束を守ることによって、家庭生活、社会生活に秩序と正義が保たれます。それは、神と人間との関係においてはなおさらです。神は、アブラハム、ノア、モーセ、ダビデに契約を与え、その約束を守るようにお命じになりました。

 ところが、選びの民イスラエルは、それを破り続けました。そのことによって罪を犯し続けたのです。そこで神は、エレミヤの時代になって、新しい契約の到来と祝福をを予告されました。新しい契約の時代になって与えられる祝福は、「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。」という神の救いの力です。

 救い主イエス・キリストの到来において、この新しい契約の約束が実現しました。キリストは、疲れた者、重荷を負うものを招き、疲れた魂と衰えた魂に救いを与え、新しい命と力を与えてくださいます。キリストは、どんなに疲れて倒れそうな魂をも癒し、強め再生してくださいます。

 今日、イエス・キリストを救い主と信じようではありませんか。今日は、救いの日、恵みの日なのです。


『第12回 思いきって大胆に』


 今回のテーマは、『思いきって大胆に』です。神の御言葉は、新約聖書使徒言行録第4章29節です。

 「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思いきって大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」

 キリストの弟子たちが聖霊の注ぎを受けて、大きな力ある働きをしました。そのこととの関係で、ペトロとヨハネがユダヤの指導者たちによって捕らえられました。二人は彼らの前でも、救い主イエス・キリストの十字架と復活について力強く証ししました。そしてすぐに釈放されました。

 二人は待ち受けていた仲間のもとに帰り、これまでのことを具体的に話しました。それを聞いた弟子たちは、心を一つにし、神に祈りました。その祈りの中で、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思いきって大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」と訴えたのでした。

 この世の権力が牙を向いて脅しをかけてくる時代に遭遇することがあります。それ以外でも、信仰に入ろうとするとき、また、信仰に入ってから、さまざまな脅しや迫害に遭う場合があります。日本では、多くの者が家族の反対に合い、四面楚歌の中で長く忍耐し、救いの道が開かれるように祈り続けます。あなたはどうでしょうか。

 心が弱くなり、疲れてしまって、祈ることさえやっとという状況に追い込まれることさえあります。そのような時に勇気を失ってはなりません。今こそ、神ご自身が「彼らの脅しに目を留め」てくださるようにと訴えるのです。そして、万事をご支配になり、神を愛する者のためには、すべてのことが相働いて益となるように導いてくださる神の約束と導きを固く信じるのです。

 「思いきって大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」この思いきった大胆さを、祈り求める者に神は授けてくださいます。神は今、そのように祈るあなたの祈りを待ち受け、答えを与えようとしておられるのです。」


『第13回 長く美しい髪』


 今回のテーマは、『長く美しい髪』です。神の御言葉は旧約聖書サムエル記下第18章9節です。

 「アブサロムがダビデの家臣に出会ったとき、彼はらばに乗っていたが、らばが樫の大木のからまりあった枝の下を通ったので、頭がその木にひっかかり、彼は天と地との間に宙吊りになった。乗っていたらばはそのまま走り過ぎてしまった。」

 これは、ダビデ王の三男アブサロムが、ダビデに背いて兵を挙げ、戦いに破れて森の中を逃げているときの出来事です。彼には自慢の長い髪の毛がありました。また、容姿もきわめて美しく、「イスラエルの中でアブサロムほど、その美しさをたたえられた男はなかった。」と証しされています。

 また、その頭の髪の毛については、「毎年の終りに髪をかることにしていたが、それは髪が重くなりすぎるから」であると、書かれています。端麗な容姿と美しい長い髪、おそらく、アブサロムの凛々しさは際立っていたのではないでしょうか。

 ところが、その美しく長い髪も、戦争の中では、アブサロムにとっては仇となりました。木の枝にその髪がからんで宙吊りになってしまったのです。それを知った将軍ヨアブは、ダビデ王の意に反して突き殺してしまいました。アブサロムは、戦いに出る前に美しい長い髪をバッサリ切り落とすべきでした。

 自分にとってこの世で最も尊いもの、大切なもの、愛しているものが、それを惜しみ、それに執着することによって、災いを招き、命取りになることがあります。もしあなたが、キリストを信じ、キリストに従おうとしているのでしたら、この世とこの世を愛する愛への執着を捨てなくてはなりません。

 罪の枝に心の髪がからまって、宙吊りになり、滅ぼされる前に目を覚まそうではありませんか。


『第14回 魂の真の平安』


 今回のテーマは『魂の真の平安』です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第6章37節です。

 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」

 これは、救い主イエス・キリストが、弟子たちにお語りになった御言葉の一節です。何という慰めに満ちた御言葉でしょう。

 私は、最近、ある教会の牧師からこんな話しを聞きました。「自分はクリスチャンホームに生れ育ち、幼児洗礼を受け、小さい頃から教会学校に通い、大人の礼拝にも出ていた。思春期になり、大学生になったとき、自分は本当に救われているんだろうか、という疑問が心に湧いてきた。そのときに、心に浮かんできたのがこの聖句だった。」というのです。

 その先生がまだ小さい頃に、家庭集会に来てくれた牧師さんが読んでくださった、このヨハネ福音書の一節が、自分の心に深く入り、それ以来自分の信仰をいつも支えてきたというのです。あの「救われているのか」という疑問が湧き起こったときにも、先ほどの御言葉が思い起こされ、自分の魂に救いの確信が満ちて来たとのことでした。

 幼児洗礼を受けて、生れた時から教会に連れられていき、信仰の環境の中で育っても、「救われているのだろうか」という疑問が起こる場合があります。その時にこそ、神の御言葉がその人の信仰を支え、その人自身の人生を根底から守り支えます。

 あなたがもし、その先生と同じような体験をしておられるのでしたら、神の御言葉に心をしっかり留めてください。神の御言葉があなたを救うのです。

 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」


『第15回 二人の主人』


 今回のテーマは、『二人の主人』です。神の御言葉は、マタイによる福音書第6章26節です。

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 この御言葉は、救い主イエス・キリストが、有名な山上の垂訓の中でお語りになったものです。

 先日、かつての太平洋戦争のときに、フィリピンのモロ島で敗戦の辛酸をなめ、その体験を本にしておられる、80歳を越えた藤岡さんと話す機会がありました。藤岡さんが、いろいろな所から講演の依頼を受け、話されるそうです。ある中学校で話しをしたところ、生徒の中に「日本はアメリカと戦争したことがあるというは、ほんとうですか。」と聞かれて、びっくりしたということでした。当時の軍隊の話しをしても、多くの10代の若者が小隊、中隊、大体、などとの区別があったことさえ知らないとのことでした。

 時代は、この50数年間の間にそれほど急激に変化してしまったという印象を強くしました。そして、あの敗戦後の苦しい時代、とくに、食べるものにもことかき、闇市や食料の買い出しに奔走したことが、昨日のように思い返されました。

 その時代と比較するなら、今は、物があふれ、天と地ほどのちがいがあります。今の人はそれを当然と思い、富や物質の豊かさのみを追い求めて、真の神を追い求めることを知りません。

 確かに、神と富とに兼ね仕えることはできません。富が人生の主人公で、その富を愛すだけの一生は、ついに空しい終わりを迎えます。今こそ、真の神を信じ、その神を主人公として、人生を歩むべき時です。あなたの人生の選択の上に祝福をお祈りいたします。


『第16回 激しく泣いた』


 今回のテーマは、『激しく泣いた』です。神の御言葉は新約聖書マタイによる福音書第26章75節です。

 「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」

 教会では、毎年、受難週とそれに続くイースターすなわち復活祭を覚えて、記念の祈祷会や礼拝を行います。今年も、4月4日にイースターを迎えます。


 救い主イエス・キリストは、今から約2.000年前に、十字架につけて殺されました。それは、人類の罪の責任を引き受けて、信じる者の身代わりとなって、十字架上で父なる神から刑罰を受けてくださった出来事でした。

 その十字架の直前で、弟子のペトロは、たとえ死ぬようなことがあっても、あなたに従いますと、大見ええを切りました。それに対し、イエスは、鶏が鳴く前に、三度あなたはわたしを知らないという、と予告されました。

 人間は、その思い上がりのゆえに、自分が何を言っているのかさえ、分からなくなってしまうときがあります。ペトロは十字架の前で三度も、イエスを知らないと言い切りました。それも、非常に強い言葉でそう言ったのです。

 しかし、それを言って外に出たとき、イエスの警告が思い出され、鋭く胸を刺されました。これまでのイエスの教えと深い愛、自分の裏切りの深さ、思い上がって浅はかなことを言ってしまったことなどが、一度に胸に去来し、激しく男泣きに泣いたのでした。しかし、そのような弱い、思い上がったペトロをも救うために主イエスは、十字架に付かれたのです。

 どんなに罪が多くても、高慢になっていても、そのあなたを救うためにキリストは十字架に付かれたのです。キリストを救い主と信じて、積もり積もった罪を赦していただこうではありませんか。


『第17回 イエス・キリストの復活』


 今回のテーマは、『イエス・キリストの復活』です。神の御言葉は、新約聖書マルコによる福音書第16章6節です。

 「若者は言った。驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」

 教会では、今年も4月4日にイースターすなわち復活祭の記念礼拝や祝会を行います。イースターは、救い主イエス・キリストが十字架にかけられて死に、死後三日目に復活したことをお祝いして、神を賛美し、救いの祝福を分かち合うときです。

 「若者が言った」とありますが、その若者は天使のことです。ユダヤ教の安息日が終わり、日曜日の朝早く、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメが、イエスの遺体に油を塗り、手厚く葬りをするために墓に行きました。そのとき、天使がイエスの復活を告げたのでした。

 この復活については、旧約聖書が長い間にわたって預言し、イエス・キリストご自身も生前、何回も予告されたことでした。復活は人の力によってではなく、神の力によって起こった出来事でした。それは、死の力への完全な勝利でした。

 イエス・キリストを救い主と信じる人に与えられるのは、この死に勝利した命、すなわち、永遠の命です。それが与えられたら、再び死ぬなどということは絶対にありません。肉体は、罪の刑罰としての死を迎えますが、それは、信じた者にとっては、永遠の命の完成への喜ばしい入口なのです。死はまた、将来の肉体の復活を信じて主のみもとに召される光栄ある入口なのです。キリストは、信じる者の魂だけではなく肉体をもお救いになるのです。

 信じて、この永遠の命をいただこうではありませんか。


『第18回 喜びの朝が来る』


 今回のテーマは、『喜びの朝が来る』です。神の御言葉は、旧約聖書詩編第30章6節です。

 「泣きながら夜を過ごす人にも
  喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」


 この詩編には、「ダビデの詩」という表題がついています。ダビデはイスラエルの偉大な王でした。そのダビデにも人生の中で苦い経験に数多く遭遇しました。その一つは、息子アブサロムの反逆に遭ったときでした。アブサロムは、父ダビデの王位を奪おうとして反逆したのでした。その策略に気づいたダビデと部下のものたちは、宮殿から急いで逃げなくてはなりませんでした。

 そのときの様子がこう書き記されています。「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上っていった。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上っていった。」

 思いがけない反逆によって、これまでの平和な日々は突然に破られました。しかも一国の王ともあろうものが、泣きながら裸足で山の坂道を上り、逃げなくてはならないという哀れな状態に陥ってしまったのです。

 よく考えて見ますと、私たちの生活の中にも、そのようなことがあるのではないでしょうか。体験した悲劇の深刻さのゆえに、涙する以外に道がないのです。喜びの朝が来るということはとうてい信じられない日を、長く過ごさなくてはならないのです。

 人間の力では万策が尽き、いちもくさんに逃げるいがいにないときに、その現実を超えて、神は必ず「喜びと共に朝を迎え」させてくださるのです。この出来事からしばらくして、神はダビデにも勝利の朝を迎えさせてくださいました。その神の救いの力と導きを信じて喜びの朝を待ち望むのが真の信仰者です。一晩中なき悲しんでも、喜びと共に来る朝が与えられます。

 苦しみ悩みの中で、この朝の到来を待ち望もうではありませんか。あなたにも必ず朝が訪れます。


『第19回 喜びに踊る心』


 今回のテーマは、『喜びに踊る心』です。神の御言葉は、旧約聖書詩編第16篇8節、9節です。

 「わたしは絶えず主に相対しています。
  主は右にいまし
  わたしは揺らぐことはありません。
  わたしの心は喜び、魂は踊ります。
  からだは安心して憩います」。

 私が住んでいる所沢は、最近二つのことでその名を全国に轟かせました。一つはダイオキシンであり、もう一つは、西武ライオンズの松坂大輔投手です。前者は悪名を響かせましたが、後者は若々しく力強いイメージをアッピールしました。

 昨日、14日のナイターでの西武ドーム初登板は、残念ながら近鉄に2対0で西武が破れてしまいました。しかし、破れたとはいえ、18歳の松坂投手が155球を投げて完投したことは、見事という以外にありません。

 私は、水曜日でしたので祈祷会があり、テレビでの中継を見ることができませんでした。前回の試合で、153キロというスピードのあるボールを投げたために、松坂君に対するマスコミの反応も異常なものがあり、多くの人が心踊らせながらその日の登板を待ち望んでいました。

 それでは、信仰の世界ではどうでしょう。心が喜び、魂が踊る体験をどこでするのでしょうか。詩編の記者がしたことは、絶えず主に相対し、主の恵みある支配を身をもって感じ、その心に揺らぐことのない平安を宿すことによってでした。

 神を信じて生きる者は、信仰をもたない多くの人が、一時的な期待で胸ふくらませ、喜びを感じるのとは違い、常に、主なる神に相対し、揺らぐことのない平安を得て、心に喜びを持ち、魂が踊る体験をし、体もまた安心して憩うのです。

 この永続的な、尽きることのない喜びが心に宿り、魂が喜び踊り、体が安心して憩う平安があなたのもでありますようにお祈りいたします。


『第20回 勝利を収めている』


 今回のテーマは、『勝利を納めている』です。神のみ言葉は、新約聖書ローマの信徒への手紙第8章37節です。

 「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」。


 信仰に入ろうとするとき、多くの人が決断にさいし二の足を踏むのはなぜでしょうか。それは、将来、自分がいつまでも信仰を持ち続けることができるかどうかに不安を抱くからです。

 確かに、将来に対して不安を抱くのは不思議ではありません。まだ、これから信仰生活に入ろうとしているのです。飛び込もうとしている、といってもいいでしょう。先のことだけでなく、今のことでさえ分からないことがたくさんあるのです。たとえば、聖書をどれだけ知っているかと聞かれても、答えるのに困ってしまうのではないでしょうか。実際は、ほとんど何も分からないところからスタートしようとしているのです。

 しかし、心配はいりません。聖書は、救い主イエス・キリストを信じ、自分の罪を悔い改めて、信仰を言い表すなら救われる、と約束しているのですから。また、将来のことについては、救い主イエス・キリストも、思い煩わずに、神の導きに信頼し、まず、神の国と神の義を求めなさいと教えておられるのですから。

 キリストはこの世の神と呼ばれるサタンに勝利し、信じる者にその勝利にあずかる祝福を与えておられます。ですから、神に敵対するものが、この世にあって見えるものであれ、また、見えないものであれ、どんなものでも、勝利者キリストに刃向かって勝つことはできません。

 「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めているのです」。今だけでなく、将来も、この勝利の力を信じるあなたを、しっかりと守り導いてくださいます。ですから、安心して、将来を神にゆだね、キリストの勝利の力にゆだねてスタートを切ってください。


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