『第21回 心が燃える』


 今回のテーマは、『心が燃える』です。神のみ言葉は新約聖書ルカによる福音書 第24章32節です。               

 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

 これは、救い主イエス・キリストが十字架の死後三日目に復活し、エマオという村に行く二人の弟子に現われ、一緒に歩きながらお話しなさったときのことを回想している言葉です。

 復活した栄光の主キリストが、聖書を説明してくださったのです。この場合の聖書は旧約聖書ですが、その説き明かしを受けたときに、心が燃えたのです。

 心が燃えるような体験をすることは、今の時代では、滅多にないのではないでしょうか。ところが、聖書を読み、その説き明かしを受けるとき、聖書が書いていることの意味がわかることによって、心が燃える体験をさせていただけるのです。聖書によって、救い主イエスきりとと出会うとき、その体験をさせていただけるのです。

 私たちの東部中会の教育委員会が発行した「教会学校教師ノート」第22号の終わりのところで、福井召一長老は、現在三郷教会の牧師である持田浩次先生の体験こう書いておられます。「で、その放送の中で若き持田先生を感動させ、動かしたものは何かというと、先生方のメッセージそのものではなくて、そのメッセージの最後に朗読される「聖書のことば」だったんだそうです。前田先生やなんかが、訛のある声で朗読されたみ言葉、これが高校生時代の持田先生を動かしたというんです」。

 若い日の持田先生は、朗読された神のみ言葉、すなわち、聖書を通してキリストに出会い、心が燃える体験をなさったのです。

 あなたも、あの二人の弟子たちのように、若い日の持田先生のように、聖書によって救い主イエス・キリストと出会い、心燃える体験をすることができるのです。神の御霊である聖霊が、あなたの心を照らして、心もえる体験を与えてくださるようお祈りいたします。


『第22回 ひとりよりもふたりが良い』


 今回のテーマは、「ひとりよりもふたりが良い。」です。神のみ言葉は旧約聖書コヘレトの言葉 第4章9、10節です。               

 「ひとりよりもふたりが良い。/共に労苦すれば、その報いは良い。/倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。」

 今日で、今年のゴールデンウイークも終わりですが、皆さんはどのようにお過ごしになりましたでしょうか。私は、4月29日に、勝田台教会の献堂式に出たほかは、もぐらが穴に入ったように、家でじっとしいました。

 さて、穴の中でも、穴の外でも、人生は何かと問われるなら、私は、すぐに「それは、人間関係である」と答えます。人は皆、生まれ落ちてからこの世を去るまで、そのときどきに、さまざまな人と関係をもちながら、遂には死を迎えなくてはならないのです。

 今朝、5日の朝日新聞朝刊の中で吉沢久子さんが、「老いじたく考」というコラムの中で、「火の災い 念には念を入れ」と題して書いておられます。その中に、「火は一番こわいから、今はだれか若い人といっしょに台所仕事をするときしか揚げ物はしないことにしている。不注意でなくても、何が起こるかわからないので、一人では処置が不安なのである。」とあります。

 これは、老年になって、揚げ物をするときには、若い人が側にいるときにだけ、という心構えであり、多くの年老いた人々への警告でもあります。

 では、いちど限りの人生で、あなたを危険の中から救い出すために、あなたと一緒にいる若い人はだれでしょうか。あなたを助け起こしてくれるただ一人の友はだれでしょうか。

 救い主イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と、約束されました。この世のだけでなく、死においても、死後もキリストは、信じるあなたと共いて、いつも、助け起こし、守り導いてくださいます。


『第23回 永遠のやすらぎ』


 今回のテーマは、「永遠のやすらぎ」です。神のみ言葉は新約聖書ヘブライ人への手紙 第13章8節です。               

 「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」

 5月9日の日曜日、筑波みことば教会からのお招きを受けて、はじめてつくば市まで行ってきました。東京駅からバスで、首都高速道と常磐道を通って筑波までちょうど1時間というところでした。

 つくば市内に入ってからの印象は、緑も多く、道路も広く、とても広大な学園都市という感じでした。こんなに大きな都市ができているとは、夢にも思っておりませんでした。

 今から45年程まえのことですが、1度だけ筑波山に登ったことがあります。その日は天気がよく、山頂から関東平野がどこまでおどこまでものどかに開けていました。田や畑、森や村や町など、自然が穏やかな歌声で歌っているような感じをうけたことを今も覚えています。

 ところが、その筑波山の麓に今は広大な学園都市ができ、そこに約10万人もの市民が暮らしているとのことです。あのころから比べると、自然も、人間の生活もすっかり変わってしまいました。忙しく行きかう人々の営みがそこにありました。あらゆるものが変わっていきます。でも、そこに本当の平安があるでしょうか。

 私ども人間が、常に追い求めてやまないものは、永遠の安らぎではないでしょうか。聖書は、救い主イエス・キリストが、きのうも今日も永遠までも変わらない方である、と言っています。このキリストを救い主と信じる時、あなたの心に永遠の安らぎが宿るのです。たとえ、日常の営みがどんなに多忙であっても、この安らぎは決してなくなることはありません。あなたの心に永遠の平安がありますように。


『第24回 心に宿る真理の霊』


 今回のテーマは、「心に宿る真理の霊」です。神のみ言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第14章17節です。               

 「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

 教会の暦では、今年は5月23日が、聖霊が弟子たちに注がれた、聖霊降臨の記念日です。この日をペンテコステとも呼びます。キリスト教の神は三位一体の神です。三位一体とは、唯一の生きている真の神が、父、子、聖霊という三つの区別される位格において存在しておられる、ということです。

 その第三位格として存在しておられる聖霊が、十字架の死後三日目に復活し、天に上られたキリストによって、天すなわち永遠の支配のみ座から弟子たちに注がれたのです。

 キリストは生前、弟子たちに、聖霊についていろいろな角度から教えられました。その一つが今読んだところです。そこでは、聖霊は真理の霊と呼ばれています。キリストを救い主と信じて、キリストに従っている弟子たちは、この真理の霊、すなわち、聖霊を知っています。

 ところが、信じないこの世の人々は、聖霊を見ようとも知ろうともいたしません。弟子たちは、聖霊を正しく知り、また、聖霊は弟子たちと共にいてくださり、これからもずっと共にいてくださると約束されているのです。

 その聖霊が、時満ちて、弟子たちに注がれ、弟子たちはそれによって力をいただき、全世界にキリストの十字架と復活の福音を伝えるように遣わされました。弟子たちが信じた昔も、私たちが信じる今も、この全く同じ聖霊が心に来て、宿り、永遠の命をを授けてくださいます。信じて神からいただく祝福は、聖霊という神その方なのです。信じた者は聖霊を宿すことにおいて神を宿し、神と共に生きるのです。


『第25回 恵みの賜物』


 今回のテーマは、「恵みの賜物」です。神のみ言葉は新約聖書ペトロの手紙1第4章10〜11節です。               

 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」。

 ペトロは教会員に対し、神から恵みとして与えられたさまざまな賜物の善い管理人として、賜物を管理し互いに仕えなさい、と勧めています。

 賜物といえば、昨日、25日ですが、小倉遊亀さんという104歳で、現在も現役として絵を描いておられる画伯の絵の展覧会を見てきました。小倉さんは仏教徒でクリスチャンではありませんが、与えられた賜物のすばらしさに目を見張りました。すでに、80年以上にわたって絵を描いておられるといいますから、その間、賜物を磨くという点でも、なみなみならない努力を重ねておられることが感じとられました。
 
 神が小倉さんに与えてくださった賜物は、一般恩恵の賜物です。クリスチャンが与えられている賜物は、恵みの賜物で、聖霊によって与えられた特別恩恵の賜物です。ペトロは、「あなたがたはそれぞれ、賜物をさずかっている」と述べて、クリスチャンはだれであってもみな、賜物を与えられていると教えています。

 賜物をもたない信徒は一人もおりません。そこで、大切なことは、自分に与えられた賜物が何であるかを知ること、探し出すことです。また、その賜物を生かして互いのために役立て、救い主イエス・キリストを通して、神の栄光をほめたたえることです。

 そうです。信じて生きるあなたに、神は恵みの賜物を与えてくださったのですから、感謝して、それを大いに用いようではありませんか。


『第26回 正しい祈りの必要』


 今回のテーマは、「正しい祈りの必要」です。神のみ言葉は新約聖書マタイによる福音書第6章8節です。               

 「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものはご存じである」。

 祈るという行為は、実際のやり方はさまざまであっても、どの宗教にも共通する営みです。祈りのない宗教はありません。

 キリスト教は、最初から祈りの宗教として成り立っています。ですから、どの教会でも祈りがありますし、どの教会の信徒もみな祈ります。

 聖書には、祈りについての教えが数多くあります。そこで、今回からしばらく祈りについて考えてみたいと思います。祈りという言葉を聞くと、キリスト教以外の人々の中には、「あれは、弱い人間のすることだ」という人がいます。神に頼ることは、弱い人間のすることで、私のように、自分のことは自分でし、家庭に対しても、社会に対しても、責任をとって生きている者には、祈るというような弱い人間のやるしみったれたことは必要ない、というのです。

 これは、神を知らない人間の高ぶりにすぎません。救い主イエス・キリストは、こう教えておられます。祈る信徒がその祈りをささげる前から、祈りを聞いてくださる父なる神は一切を知っておられるのだ、と。キリスト教の祈りは父なる神に、キリストのみ名によってささげられます。

 キリスト教の祈りの特長は、祈りを聞いてくださる神がおられ、その神は祈る前から祈る者の心の思いをすべて知り尽くしておられるところにあります。しかも、神を信じる者が、神に祈ることを待っておられるのです。それは、人間の弱さを知り尽くしておられる神の深い愛によるものなのです。

 当時のファリサイ派の人々のように間違った祈りは必要ではありません。それに反し、正しい祈りは常にささげられなくてはなりません。すべてのことを知り尽くしておられる神に感謝し、心から信頼して祈ろうではありませんか。


『第27回 祈りの根源』


 今回のテーマは、「祈りの根源」です。神のみ言葉は旧約聖書創世記第1章27節です。

 「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。

 祈りについて考える第2回目です。

 創世記の記事は、人間が神にかたどって創造された、といっています。別の表現では、神の像に似せて造られたともいいます。

 神は、最初の人間を、罪のない者、神を礼拝する者として男と女にお造りになったのです。このことに関し、ハイデルベルク信仰問答は、次のように教えています。

 問6

それでは、神は人をそのように邪悪で歪んだものに創造なさったのですか。

 答 

いいえ。むしろ神は人を良いものに、またご自分にかたどって、すなわち、まことの義と聖において創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い讃美するためでした。

 人間が創造されたのは、第一に神を正しく知るため、第二に神を心から愛するため、第三に、永遠の幸いのうちを神と共に生きるため、第四に、そうして神をほめ歌い、賛美するためでした。このように、人間は、神を正しく礼拝して生きるために造られたのです。神をほめ歌い、賛美するとは、言葉を換えて言いますと、祈るためということです。すなわち、全ったき信頼を神において生きるためにつくられたのです。

 人間は、礼拝しないでは生きられないもの、祈らないでは生きられないものとして創造されたのです。人間は、根源的に祈る存在です。祈りの根源はまさにこの神の創造のみわざに啓示されているのです。


『第28回 祈りの対象』


 今回のテーマは、「祈りの対象」です。神のみ言葉は新約聖書ルカによる福音書第18章11節、12です。               

 「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。

 祈りについて考える第3回目です。

 今回は、だれに向かって祈るのかについて考えることにいたします。今読みました聖書の箇所は、救い主イエス・キリストが話されたたとえ話しの一こまです。

 そこに、ファリサイ派に属している一人の人と、一人の徴税人が出てきます。それぞれ神殿に来て神に祈ります。ファリサイ派の人は、心の中で、すなわち、人間の思いのもっとも深いところで「神様」と呼びかけかました。ですから、まちがいなく神に祈ったのです。ところが、その祈りの内容を見ますと、出てくるのは「わたし」のことばかりです。

 口では神様と呼びかけながら、心は「わたし」だけを見ているのです。そして、自分がほかの人間とちかがい、いかにすばらしい者であるかを誇っています。自分はほかの罪深い人間のような者ではない、と自信をもって言っています。また、そこにいる徴税人のような者でもないと、自分が正しい人間であることを強調しています。

 すべての思いが「わたし」に集中し、「わたし」のすばらしさ、立派さだけを見ているのです。彼は「神様」と呼びかけながら、実際は、自分を神として自分自身に祈っているのです。彼にとって、祈りをささげる対象は自分であり、祈りを聞いてくれる対象も自分なのです。それは、「神様」と呼びかけながら、実際は「神」なき祈りなのです。                 

 本当の祈り、正しい祈りは、それとは全く正反対でなくてはなりません。祈りの対象は「神」のみです。

 


『第29回 見せようとする祈り』


 今回のテーマは、「見せようとする祈り」です。神のみ言葉は新約聖書マタイによる福音書第6章5節です。               

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている」。

 祈りについて考える第4回目です。

 救い主イエス・キリストは、山上の説教の中で、祈りについて教えておられます。ここでは、祈りにおいても、施しにおいてと同じよにうに、当時のファリサイ派の人々がいかに偽善者であったかが、示されています。
 
 町行く人に見てもらおうとして、最も人目につく大通りの角に立って祈ったというのです。これは、神に聴いていただく祈りではなく、自分がいかに熱心に祈っているかを人に見せるための祈りでした。

 偽善者は、ギリシャ語でヒポクリテースといいますが、それはもともと、「俳優」を意味する言葉です。俳優は、人に見せるために芸をします。関心は、人から拍手をもらうことです。今でいえば、アンコールとかブラボーと、声のかかることを期待して、すべてを行います。

 偽善者たちは、祈りにおいても、自分たちが期待した拍手喝采をすでに受けているのです。「彼らはすでに報いを受けている」といわれるとりです。偽善者たちの望んだ入場料、あるいは、拝観料はすでに十分に支払われているのです。

 本当の祈りはそうであってはなりません。人の目を気にするのではなくて、神の目だけを気にして祈るのです。祈りは、人に聴かせるためのものではありません。

 神のみを見つめて、神にのみ聴いていただくために祈るのです。私たちも神のみを見つめて祈りをささげましょう。


『第30回 祈りの部屋』


 今回のテーマは、「祈りの部屋」です。神のみ言葉は新約聖書マタイによる福音書第6章6節です。               

 「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。

 祈りについて考える第5回目です。

 当時のファイリサイ派の人たちは、人に見てもらおうとして、人目につく会堂や大通りの角に立って祈ることを好みました。それに対して、そのような偽善的な祈りをささげてはならないと、救い主イエス・キリストは教えられました。
 
 その続きが、この6節です。まず、「あなたが祈るときは」と、祈りは、あなた個人がささげるものであることが示されています。個人がささげる私的な祈りです。と、同時に、人目につかない「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて」祈りなさいと、求められています。その理由は、隠れたところにおられる父なる神と、一対一で相対するためです。すなわち、父なる神と「さし」で、向かいあうためです。

 「祈りは、どこでもできる。満員電車の人ごみの中でも、祈ろうと思えば祈ることができる」、という人もいます。キリストは、そうではなくて、人目につかない奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、だれにも気づかれない祈りの環境をつくって、祈りなさいと、求めておられます。

 その部屋では、父なる神と相対し、人目の届かないところで、神の目だけを意識して祈ることができます。人からの報いを期待せずに、正当に、公平に報いてくださる神からの報いだけを期待して祈ることができるのです。

 ですから、祈るときには、他のものに妨げられない「祈りの部屋」をもたなくてはなりません。気が散らない環境を整えて、父なる神の前に進み出るのです。  

 あなたの祈りの部屋に、祝福がありますように。


『第31回 何を祈るのか』


 今回のテーマは、「何を祈るのか」です。神のみ言葉は新約聖書フィリピの信徒への手紙第4章6節です。               

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。

 祈りについて考える第6回目です。

 祈るときに、何を祈ったらよいかと、迷うことはないでしょうか。日本では、古くから、「苦しい時の神頼み」といわれきました。神や仏に助けを祈り求めるのは、苦しい時だけのことだ、というのです。

 では、聖書はどう教えているでしょうか。使徒パウロが、フィリピの教会に書き送った手紙の中で、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、」なさいと教えています。「何事につけ」とは、全てのことを含むということです。

 生きていくために必要な一切のことを例外なしに祈りなさい、というのです。苦しい時だけ、人生に行き詰まったり、切羽つまった状況に追い込まれ、どうにもならなくなった時だけに祈りなさいというのではありません。

 また、人生の中で特に大事な区切りとなるような出来事、たとえば、受験のときだけ合格を祈りなさいというのでもありません。ありとあらゆことが、祈りの対象となるのです。ということは、一切を祈りの答として神から受けて生きるのがクリスチャンだ、ということです。

 同じパウロが、コリントの教会に書き送った手紙の中で、こう教えています。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント10:31)。人生の目的は、飲食という日常茶飯事の営みさえも、神の栄光を現すためにすることにあります。

 それと同じように、祈りの対象も、日常茶飯事からあらゆるものを含むのです。すべてについて祈りつつ神の栄光を現していくのです。これが、神に喜ばれる人生です。真に生きるに値する人生です。


『第32回 祈りに現わされた神の知恵』


 今回のテーマは、「祈りに現わされた神の知恵」です。神のみ言葉は新約聖書ルカによる福音書第11章1節です。               

 「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」

 祈りについて考える第7回目です。

 前回は、人生の生活の全領域にわたることを祈るのが、クリスチャンの祈りであるということをお話しいたした。

 しかし、そういわれても、何をどう祈ったら良いか分からないという人がおられるのではないでしょうか。

 実は、救い主イエス・キリストの12人の弟子たちも、祈りについては、良くわかっていませんでした。そこで、バプテスマのヨハネがその弟子に祈りを教えた模範にならって、自分たちの先生である救い主イエス・キリストに、「祈りを教えてください」と、願っているのです。

 弟子たちは、祈りを全く知らなかったわけではありません。ユダヤ教の社会の中で祈りを教えられ、学び取り、子供のときから祈ってきていたのです。ところが、それまでの祈りとバプテスマのヨハネのもとで学んだ祈りは違っていました。そして、今は、救い主イエス・キリストの弟子となって、新しい神の国の中で祈る祈りを学びとらなくてはならいと、痛切に感じたに違いありません。

 それに対し、救い主イエス・キリストは、私たちが良く知っている「主の祈り」と呼ばれる祈りを、弟子たちに教えられたのです。この祈りは、前半の三つの願いは、神の御心が地上に実現するための求めであり、後半の三つの求めは、弟子たちの地上での必要が満たされるための祈りでした。

 実は、ここに、祈りにおける神の深い知恵が具体的に現わされているのです。まず最初に神の御心が実現することを、次に、弟子たちの必要、人間の必要を求めるという順序で祈るのす。主の祈りの中には、祈らなくてならないすべてのことが、要約されて、全部含まれているのです。この祈りの模範にしたがって祈りましょう。


『第33回 まちがった動機の祈り』


 今回のテーマは、「まちがった動機の祈り」です。神のみ言葉は新約聖書ヤコブの手紙4章3節です。

 「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからである」。

 あなたは、祈りをささげるときに、どのような動機をもって、祈りを聞き入れてくださる神の前に進み出ているでしょうか。ヤコブは、間違った動機で願い求める人がいることをはっきり指摘しています。

 神のために、神のみ栄えが現されるために、与えられたものを使うのではなく、自分の楽しみのために使おうとする動機からの願い、そのような祈りは聞き入れられないと断言しています。

 その自己中心な動機の中で、もっとも警戒しなくてならないのは、祈りの答を自分で作って、それを神に押しつけるというやり方です。大変に熱心に謙遜に祈っているようでもその祈りは、非常に高慢な祈りなのです。

 たとえば、ある病気になって、それを治してくださるように祈るとします。それは必要な祈りです。しかし、そのとき、神は全能の神だから、この病気を自分の思い願うように、治してくださるに違いない、いな、神は治すべきであるといような動機をもつなら、その祈りはその動機において間違っています。

 祈りに答えてくださる神を、自分の思いどおりに動かそうとする動機です。神を自分の思いのままに支配しようとする動機です。

 もし、病気が思うように治らない時、その人は、自分の不信仰や霊的な理解の浅さに気づかずに、神を呪い、神は全能であるのに自分の病気を治してくれない、愛のない意地悪な方だ、と結論するかも知れません。祈りの動機を間違えないようにいたしましょう。


『第34回 祈りの答えは三つ』


 今回のテーマは、「祈りへの答は三つ」です。神のみ言葉は新約聖書ヤコブの手紙第1章5節です。

 「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」。

 神は、真実な信仰による祈りに、答えようとして待ち構えておられます。しかも、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになります。しかし、その答に関して言えば、神の側の深い主権的なご計画と愛に基づいて与えられるのです。

 というこは、祈る人間の側の求め、あるいは、叫びに対して、祈る側の人間が期待したとおりの答がいつも与えられるのではない、ということです。

 神が答えてくださる方法は、大きく分けると三つになります。第一は、願い求めたものを、すぐに与えてくださるという仕方です。第二は、祈り求めたことと反対の答を与えてくださるという仕方です。第三は、限りなく沈黙なさるという仕方です。

 このことは、第一のように、すぐに答が与えられる祈りだけが、神に聞き届けられ、第二、第三のような答が与えられる祈りは、神に聞き届けられていない、ということではありません。祈ることは私たちに属し、答えることは神に属しています。

 真の信仰によってささげられる祈りのすべてを、神はみな聞き届けておられます。しかし、それに対しての答をいつどのように与えられるのかは、すべてのことを知りつくし、神の子供たちを愛し慈しんでておられる、神の深い知恵によって定められます。

 ですから、祈る者たちは、最初から、神は三つの方法で答えられるのだということを、心に深く刻んでおく必要があります。いずれの方法の答であっても、その背後に神の子供たちを愛する愛が隠されているのです。たとえ、祈ったことが直ちに目に見える仕方で答えられなくても、がっかりしたり、つぶやいたりしてはなりません。その時にこそ、神のみ心に従う信仰を、しっかりと堅持しなくてはならないのです。あなたの祈りが祝福されますように期待いたします。


『第35回 祈りによる援助』


 今回のテーマは、「祈りによる援助」です。神のみ言葉は新約聖書コリント信徒への手紙2 第1章11節です。

 「あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです」。

 この手紙を書いた使徒パウロは、自分が体験した死に直面する厳しく苦しい状況の中から救い出されたことを証ししたあとで、コリントの教会員に、「あなたがたも祈りで援助してください」と訴えています。

 「援助する」ということは、助けるとか協力するということです。あなたも、知り合いの方が経済的に困っているときに援助したとか、道に迷っている人に道を教えて、助けてあげたというような経験があるのではないでしょうか。

 私たちは、「援助する」ということを聞くと、このように経済的な助けの手をさしのべるとか、道を教えて上げるとか、何かをすることによって援助することを考えます。それらは確実に援助ための手段あるいは方法となっています。

 使徒パウロは、「あなたがたも、祈りによって援助してください」、と言って、祈りが援助の有効な手段であることを示し、教会員がその手段を用いるように願っています。祈りは、神が具体的な助けを与えてくださるために用いられる手段なのです。しかも、それは強力な手段です。パウロは、神が祈りに応えて働いてくださることを、多くの体験を通して知っていました。

 あらゆる状況の下で、最初にしなくてならない援助は「祈り」です。祈りによって援助するとき、それに応えてくださる神の恵みと力によって救いが与えられ、救いへの道が開かれます。祈るだけではだめだという人がいますが、それは本当の祈りを知らない人、また、心から祈らない人、祈ることのできない人のいうことです。祈りによって、たとえ、援助のためのお金はなくても、具体的な援助ができるのです。これが、クリスチャンに与えられた祝福です。


『第36回 感謝に続く祈り』


 今回のテーマは、「感謝に続く祈り」です。神のみ言葉は新約聖書フィリピの信徒への手紙 第4章6節です。

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。

 信仰生活の中でも、思いわずらって、どうしようか、ああしようかと、迷ってしまう場合があります。そのような状態に追い込まれますと、大変に不安になり、心が落ち着かなくなります。

 「思い煩う」とは、心の焦点が定まらなくなってしまうことです。救い主イエス・キリストは、マタイによる福音書第6章33節で次のように教えておられます。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。クリスチャンの心の焦点はいつも、ここに定まっていなくてはなりません。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めることに、心のレンズのピントが合っているなら思いわずらいに悩まされることはありません。ところが、ピントがずれてしまうと、二重写しのようになり、二心の状態に落ち込んでしまうのです。

 それに勝利するためには、「感謝を込めて祈りと願いをささげ、」るのです。思いわずらいが、仲間として連れてくるのは、不平、不満、いらいら、不安などです。

 そのようななかで、まずなすべきことは、感謝すべきことを捜し出すことです。信仰のことでは、キリストの救いが授けられていること、神のみ言葉である聖書が与えられていること、教会に結ばれていることなどは、特別に捜し出さなくても、目の前にあります。日常の生活の中では、夜の間、神の摂理のみ手に支えられ、朝を無事に迎えたこと、また、朝の食事を与えられたことを初め、感謝すべきことは、数限りなくあります。

 それを一つびとつ捜し出し、数え上げて、神に感謝して祈るのです。あなたの祈りが感謝を込めた祈りでありますように。


『第37回 祈りは聞かれるか』


 今回のテーマは、「祈りは聞かれるか」です。神のみ言葉は新約聖書ヨハネによる福音書 第9章31節です。

 「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります」。

 私たちが、信仰生活をし続ける中で、自分がささげている祈りが、聞かれているのか、聞かれていないのか、自信がもてなくなったり、わからなくなったりして、不安になってしまうことがあるのではないでしょうか。

 先程のみ言葉は、生まれつき目の見えなかった人が、救い主イエス・キリストによっていやされたこととの関わりで書かれています。ファリサイ派の人々は、この人に「あの者はお前にどんなことをしたのか、お前の目をどうやって開けたのか」と詰問しました。

 それとのやり取りの中で、語られているのですが、非常にはっきりしていることは、まず、聞かれない祈りがどのようなものであるかが、明らかにされていることです。それは、「神は、罪人の言うことはお聞きにならない」ということです。

 ファリサイ派の人々のような偽善者で、不信仰な者の祈りを、神はお聞きにならないのです。たとえ、どんなに熱心に長い時間をかけてささげた祈りでも、その祈りは聞き入れられません。

 それに反し、神をあがめ、その御心を行う人の祈りは、必ず聞かれるのです。神をあがめることは、信仰によってのみできることですので、真の信仰によって祈る祈りは必ず聞き入れられます。聞かれるか、聞かれないかのカギは、信仰にあるのです。

 真の信仰をもって祈るなら、その時は、祈りは聞かれたと固く確信していいのです。その祈りを聞き入れてくださった神が、その祈りにどうお答になるかは、神の主権的なご決断によります。祈り願ったことが、すぐに、実現するという仕方で答えられなくても、神に聞き入れられていることを、疑う必要はまったくありません。聞かれているとの確信をもって祈り続けましょう。


『第38回 祈る力の源』


 今回のテーマは、「祈る力の源」です。神のみ言葉は新約聖書ローマの信徒への手紙第8章14節、15節です。

 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」。

 救い主イエス・キリスとを信じ、真の信仰を持って神のみ言葉に従っているクリスチャンは皆、神の子供です。それは、神の霊によって導かれているからです。

 神の霊とは何でしょうか。それは、別の呼び方では聖霊です。聖霊は、父なる神と子なる神であるキリストから、永遠に出ておられる神ご自身です。

 その神ご自身である聖霊は、死後三日目に復活し、天に昇り、父なる神の右の座すなわち支配のみ座にお着きになったキリストによって、弟子たちに注がれました。使徒言行録第2章33節はこう教えています。「それで、イエスは神の右にあげられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」。

 キリストを救い主と信じますと、信じた人の心にこの聖霊が授けられ、聖霊が心に宿ってくださいます。そのことによって、新しい命、永遠の命が授けられます。聖霊が心に宿った者を、父なる神は、神の子どもであると宣告してくださいます。

 と同時に、父なる神を「アッバ 父よ」と呼び、祈ることができるようにしてくださるのです。「アッバ 父よ」とは、最も親しい呼びかけで、「おとうさん」ということです。

 そう呼びかける力、すなわち、祈る力を聖霊は心の中で起こしてくださるのです。しかも、キリストはご自身を救い主と信じた神の子どもたちすべてに、分け隔てなく与えてくださいます。ですから、クリスチャンで祈る力がないという人はただの一人もおりません。聖霊が祈りを起こしてくださることを信じて、聖霊に信頼して祈ろうではありませんか。あなたは祈ることができるのです。           


『第39回 尻込みする祈り』


 今回のテーマは、「尻込みする祈り」。神のみ言葉は新約聖書コリント信徒への手紙1第4章7節です。

 「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたのもっているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」。

 前回、イエス・キリストを信じ、真の信仰を持って神のみ言葉に従っているクリスチャンは皆、神の子供であり、神の霊によって導かれているということをお話しいたしました。神の霊は聖霊で、信じる者の心に祈る力を与えてくだる霊です。

 ですから、すべての信徒が祈る力を恵みとして与えられているのです。ところが、実際に、祈る段階になりますと、何と多くの信徒が尻込みして、「私は祈れません」とか、「この次にしてください」ということでしょう。

 そこには、ほかの人のようにうまく祈れない、ということで、祈ることがおっくうになり、祈ることに対して尻込みするという心理が働いているように思われます。最近は薄れてきたとはいえ、日本人の血の中には謙譲の美徳が埋め込まれています。

 ですから、遠慮することが良いことだという思いがあります。いつの間にか、祈ることにおいても遠慮して、祈れる人に先を譲るというような思いが心を支配し、自分は祈れないと決めこんでしまうのです。そして、祈るとなると、いつもに不安を覚えます。

 でも、聖書は、「もしいただいたのなら、なぜいただかなかったかのような顔して高ぶるのですか」と述べています。祈る内なる力を与えられていながら、与えられていないように考え、ふるまうことは、謙遜ではなくて高慢の罪を犯すことなのです。

 真の謙遜は罪ではありません。そえれは、聖霊の結ぶ実であって、生涯たいせつにすべきものです。それに反し、自分を偽る過度の謙遜は高慢の罪なのです。信じて、すでに祈りの力を与えられているのですから、素直にそのことを認め、勇気を出して祈ってください。祈りにおいて尻込みをしてはなりません。


『第40回 しつような祈り』


 今回のテーマは、「しつような祈り」です。神のみ言葉は新約聖書ルカによる福音書第11章8節です。               

 「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」

 弟子の一人が、祈りを教えてくださいと願い出たとき、主イエスは、祈りの模範である「主の祈り」を教えられました。それに続いて一つのたとえを話されました。弟子に友人がいて、その友人のところへ行って、こうお願いするのです。真夜中に尋ねて来た人がいて、その人を接待するのにパンを三つ貸してほしい。すると頼まれた友人は、面倒をかけないでくれ、もう戸締りはしたし、子供は自分のそばにねているので、起きて何かをあげるわけにはいきません。と答えます。

 その後で、友達だからということでは、起きて与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて必要なものは何でも与える、と教えられています。

 祈りの中で執拗さが、どんなに必要かを、主イエスは弟子に教えられたのです。「このしつように」と訳されている言葉を、日本語訳のいくつかを見ますとこう訳しています。新改訳「あくまで頼み続けるなら」、詳訳聖書「あつかましいほどのしつこさ<強要>に閉口して」、岩波訳「その執拗さのゆえに」。

 日本語訳がこのように苦労して訳しているところから総合しますと、「あつかましいほどのしつこさで、あくまで頼み続けること、また、その頼みの執拗さに相手が閉口してしまい、言うことを聞いてくれるまで、」頼み続けるということになります。

 祈りは、しばらくすると、あきらめに変わったり、忘れたりする誘惑に陥ることが多くあります。しかし、そうであってはなりません。神に食らいつく、食らいつき続けることが必要なのです。もう一度、あなたの祈りの中のしつようさを考え直してみようではありませんか。


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