『第41回 気を落とさずに祈れ』


 今回のテーマは、「気を落とさずに祈れ」です。神のみ言葉は新約聖書ルカによる福音書第18章5節です。

 「しかし、やもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしにさんざんな目に遭わすにちがいない」。

 この18章は次の言葉で始まっています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」。

 そのたとえに、神を畏れず人を人とも思わない裁判官が出てきます。その裁判官の所に、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と、執拗にやって来る一人のやもめがいました。裁判官は、根負けし、うるさくてかなわないから、裁判をしてやろうというのです。

 「気を落とす」という言葉は、他のところでは「落胆する」と訳されています。ところが、次の2箇所では「たゆむ」と訳されています。それは、ガラテヤ信徒への手紙6章9節、テサロニケ信徒への手紙2 3章13節です。

 日本語の辞典を見ましたら、たゆむは、「気がゆるむ」、「なまける」また「疲れる」とありました。活用類語辞典には、「油断」、「あきる」とありました。これらを総合しますと、「気を落とす」ということは、気がゆるんで緊張感がなくなり、なまけてしまうこと、あるいは、油断して心に隙間が生じ、あきてしまうこととなります。その結果は、継続的に一つのことをし続けることができない、ということです。

 あの神を畏れず、人を人とも思わない裁判官でも、執拗に求めるやもめの訴えを聞いて、裁判をしてやろうと決断したのです。救い主イエス・キリストは、神は、神を呼び求める選びの民の祈りを聞き、「速やかに裁いてくださる」と教えておられます。 

 終末とキリストの再臨を待ち望み、目の前の状況がどのように変化しても、必ず答えられることを信じて、失望せずに、がっかりして祈りをやめずに、祈り続けるのが、私たちの祈りです。


『第42回 祈りが神へとどく道』


 今回のテーマは、「祈りが神へとどく道」です。神のみ言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第14章6節です。               

 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない』」。

 祈りは、救い主イエス・キリストが、祈りの模範として弟子たちに教えられた主の祈りの最初の言葉ではじまります。

 それは、「天におられるわたしたちの父よ」です。父なる神のみ名を呼んで、父なる神に祈りをささげます。もちろん、救い主イエス・キリストに対して、また、聖霊なる神に対して祈りをささげることも、決して誤りではありません。しかし、通常は、父なる神に対して祈りをささげます。それは、キリストご自身が弟子たちにそのように教えておられるからです。

 ところが、たとえ、キリストを信じて救いをいただいた者であっても、仲保者なしに直接、神に顔を上げて祈ることは許されません。祈りが天におられる父なる神に届くには、その祈りが通るべき道があり、渡るべき橋があるのです。

 その道となり橋となっておられるのが、天の父なる神の右の座、すなわち、支配のみ座についておられるキリストなのです。信じる者の罪の贖いのために十字架で死に、死後三日目に復活し、天に上られた教会のかしらキリストなのです。

 このように、信じた者たちと父なる神との間に立って、道となり橋となっておられるのが唯一の仲保者キリストなのです。すべての祈りは、この仲保者であるキリストを通して、はじめて父なる神に届くのです。

 仲保者は決して、プロテスタント教会の牧師ではありません。また、カトリック教会の司祭でもありません。仲保者は神の永遠のみ子、十字架で死に、復活して天に上られたキリストのみです。


『第43回 キリストの名による祈り』


 今回のテーマは、「キリストの名による祈り」です。神のみ言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第14章14節です。

「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。

 前回は、祈りが父なる神にとどくためには、そこに行くべき道筋のあることをお話しいたしました。今回は、その道筋がキリストの名であることについて考えます。

 キリストは、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」と約束なさいました。この世に名前のない人間はおりません。それが、両親がつけてくれた名かそれ以外の人がつけてくれた名かのいずれかであっても、必ず名前をもっています。しかし、その名前は、その人の人格や性格や実力をどれほどよく現わしているでしょうか。

「強」という名の方が、どれほど精神的にも肉体的にも頑強でしょうか。また、「清」という名の方が、どれほど清い心をもっているでしょうか。

 聖書がイエス・キリストというとき、その名前には、深い意味があり、救い主イエス・キリストの人格と働きを余すところなく伝えています。イエスは「救う方、救い主」という意味です。キリストは「油注がれた方」という意味です。油注ぎを受けるのは、旧約聖書の時代では、預言者、祭司、王という職務につくときでした。

 キリストは、この三つの職務を一人で引き受けて救いのお働きをなさいました。地上におられた間も、十字架の後、復活して天に上られたあとも、預言者、祭司、王として救いのお働きをなさっておられるのです。

 キリストの名によって祈るとは、キリストご自身によって祈る、キリストご自身を仲保者として祈るということなのです。キリストの執り成しを通して、あなたの祈りは、父なる神にとどくのです。祈りは、この仲保をとおして聞かれているのです。


『第44回 お金に関わる祈り』


 今回のテーマは、「お金に関わる祈り 第1回」です。神のみ言葉は新約聖書マタイによる福音書第6章11節です。

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。

 キリスト教では、「お金を得るために祈ることは罪なのですか」、という質問をいただきました。

 先ほどの「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、救い主イエス・キリストが、弟子たちに教えられた、祈りの模範である「主の祈り」と呼ばれる祈りの中の一節です。

 今日必要な糧の中には、生活を維持するために必要ないっさいのものが含まれます。もちろん、お金そのものも含まれています。ですから、お金を与えてくださいと祈ることは、必要な求めであり、熱心に祈り求めなくてならないことの一つです。

 ところで、お金についての誤解をはじめに解いておきましょう。それは、お金はきたないものだという考えです。お金は金貨であれ銀貨であれ、また紙幣であれ、すべては「物」にすぎません。ですから、それ自体で良いお金とか悪いお金とかはありません。

 良い人間が良いことのために使った場合、それは良いお金になります。その反対に、悪い人間、罪を犯す人間が罪を犯す目的で使えば、それは、悪いお金すなわち悪銭になります。

 問題は、人間がお金に関わる前に、どのように、お金を人間社会に与えてくださった神とかかわるかです。そのことについては、これからも、このフクインダイアルで何度も取り上げていきたいと考えています。

 私のような牧師がお金もうけのために祈ることはOKだというと、すぐに、下品な人間、低級な牧師のように考えられる方がおられるかもしれません。しかし、良く心を落ち着けて考えてください。現実の社会生活は、お金なしにはなりたちません。必要なものを祈り求めることは、決して、悪いことでも、汚らわしいことでもありません。


『第45回 お金に関わる祈り 2』


 今回のテーマは、「お金に関わる祈り 2」です。神のみ言葉は新約聖書マタイによる福音書第6章24節です。               

 「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。

 前回は、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りを取り上げました。その中には、生活に必要なすべてのものを求めることが含まれるという点についてお話しいたしました。

 働く職場環境が与えられることも、大切な祈りのテーマです。就職難、リストラによって職を失う方など、深刻な生活難と戦っておられる方が多くおります。そのような状況の下では、職を得るための祈りを真剣にささげることが当然です。

 職場を与えられることは、そこでの働きを通して、自営業であれその他の職であれ、働きの正当な対価として収入を得ることです。ですから、働きを通して、不当な利益、暴利でない限り儲けることは、生活にとって必要なことです。

 商売をなさっておられる方は、そのために駆け引きをするのは当然のことで、仕入れの元値を公開しては商売になりません。

 これまでの人生の中で、お金のために大変に苦労なさって、人生はお金だと考え、お金をもうけ、蓄えることに人生のすべてをかけておられる方がいらっしゃると思います。

 しかし、聖書は、お金はたいせつなものであり、それを祈り求めなさいと勧めますが、決して、お金が人生の究極的な支配者ではない、ということをはっきり教えています。

 その究極的な支配者は、万物の創造者、罪ある人間の救い主である、生きておられる真の神です。この神を信じ、その教えに従って生きるのが人生の真の生き方です。


『第46回 お金に関わる祈り 3』


 今回のテーマは、「お金に関わる祈り 3」です。神のみ言葉は新約聖書テモテへの手紙1 第6章9節10節です。               

 「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」。

 お金は、神が人間生活の必要のために、人間の社会に与えてくださった大切な生活の手段の一つです。聖書は、そのお金と人間がどう関わるのか、また、特に信仰をもったクリスチャンがどうつきあうべきかについて、さまざまな角度から教えています。

 生活の手段としてのお金を求めて祈ることは、大切なことです。それと同時に、聖書は、そのお金を何のためにどのように使うべきかを教えています。 

 この手紙をテモテという弟子に書いた使徒パウロは、人間がいかにお金を得ようとする欲望に惑わされやすいものであるか、その欲望に弱く負けやすいものであるかを良く知っていました。人間の心にある罪が、際限なくお金を儲けようとする欲望を生み出すのです。

 一度、この欲望に捕えられますと、生活の必要が十分満たされてもなお、お金を得ようとする思いにブレーキをかけることができなくなってしまいます。

 そして、誘惑に陥り、罠にかかって苦しまなくてはならないようになってしまうのです。ですから、少なくとも信仰によって生きている者は、正しくお金を求め、正しく使うことができるように、祈り求めなくてはなりません。

 この二つは切り離すことのできないセットになっています。ですから、いつも一体として祈り求めなくてはなりません。

 正しく使うことを祈り求めながら、自分自身で、お金を得ようとする欲望と欲望から来る誘惑に対して、自覚的に戦って行かなくてはなりません。 

 生活の必要を求めるあなたの祈りが、豊かに祝福されますように。


『第47回 お金に関わる祈り 4』


 今回のテーマは、「お金に関わる祈り 4」です。神のみ言葉は旧約聖書歴代誌上 第29章14節です。               

 「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう。わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」。

 人間とお金の関わりを問い詰めていきますと。そのお金で生活している人間の存在そのものを見つめるように導かれます。人間はなぜ人間として存在しているのでしょうか、あなたはなぜ、他の人ではない「あなた」として、そこにおられるのでしょうか。そこにいるあなたが、お金を得るために働き、得たお金で生活しているのです。    
                           
 さて、今読みました聖書の箇所は、イスラエルの王ダビデが、神殿建築のために準備をし、その感謝の祈りの中で述べた一節です。

 偉大な神の前で、ダビデは自分の無価値さと、自分の民の無価値さを悟りました。そして、「すべてはあなたからいただいたもの」と言っています。すべてとは、神殿建築のために献げられたすべてのものです。と同時に、献げる民の命も、人間関係も、技術も、得た富や財産も、あらゆるものが神から授けられているのだと、いっているのです。

 そして、続いて、「わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」と、述べています。命は神から与えられてあるものです。命を養うための手段も人間関係も、すべてが、神の御心と摂理のみ手によって与えられてあるものです。

 この与えられてあるという現実を、神からの恵みとして受け止めるのが信仰です。信仰という視点をもって、お金と生活の必要のすべてを受け止めるのです。創造者である神を根源にして人間は存在し、造られた人間は、神を中心として、お金と生活のすべてを考えていくのです。お金を司るあなたの信仰が、祝福されますように。


『第48回 お金に関わる祈り 5』


 今回のテーマは、「お金に関わる祈り 5」です。神のみ言葉は新約聖書使徒言行録第20章35節です。

 「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」。

 これは、ミレトという港町で、パウロがエフェソ教会の長老に語った別れの説教の最後に出てくる言葉です。今回、注目したいのは、「受けるよりは与える方が幸いである」というみ言葉です。

 主イエス御自身がお語りになったみ言葉として引用されていますが、そのままの表現は福音書にはありません。ルカによる福音書第6章38節に、主イエスの「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とのみ言葉が記されています。この教えに基づいてパウロが「受けるよりは与える方が幸いである」と語ったのでしょう。

 私たちはここで、与えることの大切さを教えられます。お金に関していうならば、通常は、与えることよりも自分が儲けることを先に考えます。与えることは、使うことに通じます。パウロは、弱い人々を助けるという、与える目的、すなわち、使う目的をもっていて、自分に与えられたものを用いたのです。

 しかも、「わたしはいつも身をもって示してきました」とあるとおり、これまでの伝道者としての歩みの中で、いつも模範となってそのことを実践してきました。

 言葉を換えて言いますと、神の御心にそって、神を中心にして、与える幸いを身をもって味わってきたということです。儲けたお金を懐に仕舞い込み、そのお金の顔を見て喜び、安心するのではなくて、弱い者、貧しい人々を助け、神のみ顔をあおぎ見て、与える喜びを体得してきたのです。

 私たちも、常に、「受けるよりは与える方が幸いである」とのみ言葉を心に仕舞い込んで、日用の糧を与えてください、と祈ろうではありませんか。


『第49回 お金に関わる祈り 6』


 今回のテーマは、「お金に関わる祈り 6」です。神のみ言葉は新約聖書ペトロの手紙1 第4章10節です。

 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕え合いなさい」。

 私たちが、お金との関わりで祈るとき、大切な一つのことは、「神のさまざまな恵みの善い管理者として」立てられているということです。

 すなわち、神が管理するように委ねてくださっている賜物を、神のみ心に従って、忠実に管理する使命と責任があるのです。たしかに、自分の手にある富は、自分が働き、自分で稼いで貯めたものにちがいありません。しかし、すでにお話ししましたように、私たちの命そのものをはじめとして、命を支えるための太陽の光も、天から降る雨も、耕す土地も、地の実りも、働くための健康も、人間関係も、いっさいが神の創造と摂理のみ手によって、授けられているのです。

 しかも、私たちの手にある富は、私たちが管理するように神から委ねられているのです。ですから、働いて富を得ることと、得た富を管理することは、一体となって結ばれています。

 そこで、自分が善い管理者として、手にある富の一切を管理してきたかどうか、管理しているかどうかを、振り返って見る必要があります。

 また、「その賜物を生かして互いに仕え合いなさい」とあるとおり、まず、賜物を生かすためには、そのための「知恵」を授けていただかなくてはなりません。さらに、「互いに仕え合うために」それらを用いる努力をしなくてはなりません。
                      
 賜物を生かす知恵を授けていただくように、同時に、富を自分の益のためだけに用いるのではなく、互いに仕え合うために用いることができるように祈り求めようではありませんか。


『第50回 お金に関わる祈り 7』


 今回のテーマは、「お金に関わる祈り 7」です。神のみ言葉は新約聖書ヘブライ人への手紙 第13章5節です。

 「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身『わたしは、決してあなたから離れず、決して置き去りにしない』と言われました」。

 私たちは、救い主イエス・キリストから「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と、祈るように教えられています。私たちは、働いた報酬として金銭を得ることは、神の御心にかなうことです。

 その中で、正当な儲けを得ることもまた当然のことなのです。ところが、人間の心は、しばしば、金銭に「執着する」という方向にいざなわれてしまいます。ですから、金銭にまつわる数々の罪が金銭との関わりで起きて来るのは当然です。

 この世のさまざまな宗教が、「信ずればお金が儲かる」という錦のみ旗をかかげて勧誘するのは、一方で、それに簡単に乗せられてしまう人間があまりにも多いからですし、他方で、金銭に執着しやすい人の心を巧みに利用する術をしっているからです。

 聖書は、金銭に執着してはならない、と警告を鳴らし続けています。執着するとは、金銭を愛すことにほかなりません。なぜ、金銭に執着し、金銭を愛して、あたかも金銭が人生の究極的な支配者でもあるかのように思ってしまうのでしょうか。

 それは、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という、神の約束を見失ってしまうからです。かつて、旧約時代にモーセは、自分の後継者としてのヨシュアを任命したとき、ヨシュアと民にこう語っています。

 「強く、また雄々しくあれ、恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(申命記31:6)。契約の主であり、約束を必ず実現し、導かれる神の御言葉、神の約束に信頼して従うのが、旧約時代にも新約時代にも全く同じ信仰の姿勢です。

 まず、金銭にではなく、神の御心と約束に、常に目をとめることができるように祈りましょう。


『第51回 クリスマス』


 今回のテーマは、「クリスマス」です。神のみ言葉は新約聖書マタイによる福音書第1章17節です。

 「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」。

 これは、新約聖書の最初の言葉、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」で始まる、系図のしめくくりとして出てくる言葉です。多くの人がこの長い系図を見て、聖書を読もうとする意欲をそがれ、読むことを止めてしまうと言われています。

 しかし、この系図はキリストを知る上で非常に大切なものです。十四代ずつ三つに分割して書かれていますが、それは、今のように本があふれている時代とは違い、個人が本を持つことのできなかった時代に、暗記するための工夫をこらし、整理する必要から生まれたものなのです。

 そして、何よりも大切なことは、救い主イエス・キリストが、アブラハム以来の血統を継いでいるということです。最初に、「アブラハムの子」点、「ダビデの子」点と、二人の間に「点」を入れずに、「アブラハムの子ダビデの子」と続いて書かれています。今から4000年前のアブラハムに、神はキリストの到来を約束されました。その同じ内容の約束が豊かにされ、3000年前のダビデに与えられ、この一つの約束に基づいて、すなわち、約束が実現して、救い主イエス・キリストがこの世に来られたことを示してい
ます。

 マタイは、ユダヤ人クリスチャンのために、また、ユダヤ人を信仰に導くためにこの福音書を書いたといわれています。系図を重んずるユダヤ民族に、救い主イエス・キリストの先祖が、よく分かるように説き明かしたのです。

 その先祖は、ユダヤ民族の父、信仰の父であったアブラハムでした。アブラハムの子孫に偉大なダビデ王がいました。その子孫に、ガリラヤのナザレの大工ヨセフが生まれたのです。そのヨセフの妻マリアから救い主イエス・キリストはお生まれになりました。こうして、神の救いの約束は、歴史の中で成就しました。


『第52回 系図の中の女性』


 今回のテーマは、「系図の中の女性」です。神のみ言葉は新約聖書マタイによる福音書 第1章5節です。               

 「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた」。

 前々回、マタイが第1章の中で書いた「系図」についてお話しいたしました。その系図の中に登場している女性について今日は見ることにいたします。

 この系図の中には、次の4名の女性の名が書かれています。第一番目はタマルです。3節に「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とあります。次は、最初に読みました5節の中にあります。第二番目はラハブです。「サルモンはラハブによってボアズを」とあり、第三番目はルツです。「ボアズはルツによってオベドを」とあります。もう一人は、6節後半に出てくるウリヤの妻です。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、」と述べられています。

 第一番目のタマルはユダの長男エルの嫁でしたが、舅であるユダと肉体関係をもって、ペレツとゼラという双子をもうけたのでした。第二番目のラハブは、エリコという町の娼婦でした。第三番目のルツは、モアブ人であって、ユダヤ人にとっては異邦人でした。しかも、かつて先祖モーセの時代に、モアブの女たちは、イスラエルの民を誘惑し、偶像礼拝にいざないました。

 律法の中の申命記23章4節には、「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。」ときびしく定められていました。イスラエルにとっては、汚れた民の中の一人であるルツが先祖に加わったのです。

 第四番目は、6節後半に出てくる「ウリアの妻」です。その名前がここには書かれていませんが、バトセバと言います。ウリヤの妻バトセバが水浴しているのを見たダビデは、人妻バトセバを召し寄せて姦淫の罪を犯しました。

 このように、四人の女性は、罪にまみれたり異邦人であったり、不名誉な者たちばかりでした。その罪に勝利して、歴史を支配なさった神が救い主キリストをこの世に遣わされたのです。こうして、同時に、ユダヤ人の民族的な高慢を打ち砕かれたのです。


『第53回 救いの保証』


 今回のテーマは、「救いの保証」です。神のみ言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第6章37節です。               

 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」。

 今年も、あと2日となりました。皆さんの今年の歩みはいかがだったでしょうか。

 今年の大きな問題の一つに介護保険制度があげられます。来年4月から実施されるこの制度については、現在もさまざまな問題が提起されています。中でも、査定によって、これまで受けてきたような介護が受けられなくなるという高齢者の不安と心配の声が数多くに聞かれます。

 すなわち、人生の最期の時期になって、どう生きてゆけるのかという生活上の保障の問題です。その保障が確実であれば安心して残る人生を生きることができます。

 救いにおいても同じことではないでしょうか。もし、救いが確実なものではないなら、いつも心の底に不安が宿ります。私が立派な良い行ないをすることが救いの確実な保障になるのでしょうか。あるいは、献金を多くすれば救いが確実に保障されるのでしょうか。

 そうではありません。救いは神のものであって、人間のものではありません。ですから、人間はどのようなうまい考えを考えついたとしても、また、どんなに一生懸命に信仰に励んでも、その人間の考えや行ないや信仰が救いを保障することはできません。

 神の側の保障、救い主イエス・キリストがお与えくださる保障だけが、確実絶対の保障です。キリストは、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」と言っておられます。「追い出さない」ということは、「捨てない」ということです。このキリストのみ言葉が救いの保障です。

 真の信仰によって信じている人は皆、このキリストの御言葉の保障のゆえに確実に救われます。救いは確実である保障をいただいているのですから、安心して新しい年を迎えようではありませんか。


『第54回 聖霊による救いの保証』


 2000年代の最初の年の初めですが、今回のテーマは「聖霊による救いの保証」です。神のみ言葉は、新約聖書エフェソの信徒への手紙第1章13、14節です。

 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」。

 前回は、私たちの救い主イエス・キリストのみ言葉による救いの保証について考えました。今回は、神の御霊である聖霊の保証について見ることにいたします。

 ここで、使徒パウロは、救いの保証が聖霊によって与えられていることを、教えています。「信じて、約束された聖霊で証印を押された」とは、あなたは救われましたという印鑑を、聖霊が心に押してくださったということです。

 救いは本物であるという保証を、聖霊が神の実印となって心に押してくださったのです。と同時に、聖霊は「御国を受け継ぐための保証」でもあります。これは、将来、確実に救いの完成が与えれられるという保証なのです。

 キリストの御言葉による救いの保証を目で読み、耳で聞いたのですが。聖霊はその保証を心の中に刻印してくださったのです。

 先月の21日の朝日新聞の声の欄に、「保証人になり地獄の苦しみ」という題での投書がありました。その書き出しはこうです。「私は今、給料の半分以上を差し押さえられ、ボーナスも同様に取られている。理由は商工ローンの保証人となったからだ」。

 他人の借金の保証をすることが、どんなに苦しい結果を招くかが述べられ、最期に、「皆さん、保証人になっては行けません、絶対に。保証人すなわち地獄行きです」と、むすばれています。

 ところが、キリスト御自身も、キリストの御霊である聖霊も保証人となり、罪多くく弱い私たち、洗礼や信仰告白の際の誓約に反して、信仰の節操を曲げてしまったり、つまずいたりする者たちの救いを完全に保証していてくださいます。救いは絶対に保証されているのです。ですから、罪を犯した時には、すぐに悔い改め神に立ち帰らなくてはなりません。


『第55回 良い行いへの熱心』


 今回のテーマは「良い行いへの熱心」です。神の御言葉は新約聖書テトスへの手紙第2章14節です。
 
 「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」。

 前回は、救いに対しての聖霊の保証について考えました。救いがそのように確実なものであるなら、信仰生活の中でどんなふしだらなことをしても、結局は救われるんだから、何をしてもいいのではないか、と考える人が出てきます。

 これは、聖書が教えていることと100パーセント矛盾する考えです。確かに、聖書は、生まれながらの人間の良い行いによっては救われないと、繰り返して教えています。良い行いによるのではなくて、キリストを救い主と信じる信仰によって救われるのです。

 信じて救われるのですが、問題は、キリストが何を目指してお救いくださったのかということです。キリスト御自身がもっておられる救いの目的です。

 ヨハネによる福音書に、キリストが姦通の女を赦してくださった出来事が記されています。その最後で、この女にキリストはこうお語りになりました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪をおかしてはならない」(8章11節)

 ここで明瞭なことは、救いは、救われた者が、罪を犯さないためのものであるということです。言葉を換えて言いますと、良い行いに生きるためである、ということです。

 使徒パウロは、テトスに宛た手紙の中で、キリストの十字架の贖いによる救いは、「良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」と、述べています。救いは、救われた者たちが、良い行いをして生きるために与えられているのです。

 救いが永遠に保証されているのだから、罪を犯しても良いということは、サタンの論理でキリストのお考えではありません。救いは、良い行いをなすために、それを通して神の栄光を現わすために与えられているのです。

 ですから、救いの保証に感謝して、良い行いに励もうではありませんか。キリストがお喜びになる行いを神の前に整えようではありませんか。


『第56回 あふれる恵み』


 今回のテーマは「あふれる恵み」です。神の御言葉はマルコによる福音書第6章41節-44節です。
 
 「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった」。

 これは、救い主イエス・キリストが、五千人に食べ物を与えられた出来事の最後のところに出てくる文章です。夕方が近づき、弟子たちは、大勢の人々が、夕食をとる時間になっていること気づいていました。そこで、イエスさまのところに来て、群衆を解散させて、自分たちで食料を得ることができるようにはからってください、と頼みました。

 イエスさまは、それに対し、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答になりました。これには、弟子たちもびっくりしたにちがいありません。なぜなら、自分たちのお金で、こんなに大勢の人にパンを買ってきて食べさせるのですか、と言っているからです。すなわち、しなさいと言われても、そんなことは出来ない相談だ、というわけです。

 弟子たちは、これまでもイエスさまの奇蹟の力を何度も見てきました。ですから、そこで、イエスさま「どうすべきかお助けください」と、まず助けを求めるべきでした。ところが、そうせずに、そんなことは出来ない相談じゃありませんかと言って、イエスさまに信頼することをすっかり忘れてしまっていたのです。 

 そのとき、イエスさまは、五つのパンと二匹の魚のあることを確認させ、群衆を組に分けて座らせ、祈りの後で、それらを裂いて弟子たちに配らせました。そうするとどうでしょう。配っても配っても、パンと魚は弟子たちの手の中で増え続け、すべての必要が満たされたのです。それだけではなく、残りが十二の籠いっぱいになりました。

 イエスさまが、パンと魚の山を築いて、弟子たちが入れ物にそれらを入れて運び与えたのではありません。パンも魚も弟子たちの手の中で増え続けたのです。それは、神のみ子、メシアとしてのイエス・キリストの恵み、奇蹟による助けそのものでした。

 イエスさまが必要と認めて、与えてくださる限り、恵みは決して尽きることがありません。それどころか、満ちあふれ、湧きあふれてとどまることを知らないのです。そのようなあふれる恵みによって、信じるあなたが、信じているあなたが救われているのです。

 今日一日を感謝の日として過ごそうではありませんか。


『第57回 主を尋ね求めよ』


 今回のテーマは「主を尋ね求めよ」です。神の御言葉は旧約聖書イザヤ書第55章6節です。
 
 「主を尋ね求めよ、見い出しうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」

 預言者イザヤは、来るべき解放の時代、メシア到来の時代を仰ぎ望みながら、民に訴えました。「主を尋ね求めよ、見い出しうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。

 人間は、多くの場合、信仰に入るということに関しては、自分が入ろうと思うとき、また、入ると決断したときに、いつでも自由に入れると思っているのではないでしょうか。これは、この世のにある数多くの宗教ではそうでしょうが、キリスト教ではちがいます。

 私たち生まれながらの罪ある人間に、神が近づいてくださり、その神を見い出しうるように道を備えてくださる時があるのです。その時はいつでしょうか。それは今日であり、今なのです。使徒パウロはコリントの教会に、コリント信徒への手紙2、第6章2節の最後で「今や、恵みの時、今こそ救いの日。」と書いています。

 とはいっても、今日が、そして今が、恵みの時であり、神が近くにおられる時であることをどうして知ることができるのでしょうか。そのしるしはどこにあるのでしょうか。

 それは、さまざまな呼びかけと招きがあたなに与えられる時です。たとえば、あなたに1枚のトラクトが渡される時、教会の礼拝に行きましょうとさそいが来る時、聖書が手に入った時、礼拝での説教を聞いて信仰の決断が迫られる時などです。

 また、今は、信仰と救いへの招きは、広くラジオやテレビを用いてなされる時代です。そのような伝道の手段を通して、あなたに福音が語りかけられる時です。この時こそ、救いの神があなたに近づいておられのです。この時こそ神を見い出し、神に近づく非常に大切なチャンスなのです。 

 キリスト教に入るのは、死が近くなってからでも遅くはないとおっしゃる方があります。私たち人間は、いつ死ぬかわかりません。今日、あるいは、明日が命の終わりとなる場合があります。ですから、神の御言葉が近づいている今日、そして、今が、神を呼び求める最上の時なのです。今日呼び求め、今信じてください。そして、豊かな赦しにあずかろうではありませんか。


『第58回 永遠の命とは』


 今回のテーマは「永遠の命とは」です。神の御言葉はヨハネによる福音書第6章47節です。

 「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」。

 これから数回にわたって、永遠の命をテーマとしてお話しをいたします。
 今お読みしました箇所は、非常に短い1節ですが、救いの恵みの急所が一言で言い表わされています。このみ言葉は、救い主イエス・キリストが、ご自分が命のパンであることを教えられた文脈の中で出てきています。そして、このみ言葉は、救い主イエス・キリストの救いの宣言そのものです。

 ある時、救い主イエス・キリストのもとに、一人の金持ちの青年が来て、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。これは、ユダヤの社会で伝統的なユダヤ教の風土の中で生きていながら、お金や名誉、また社会的な地位や身分が若い時から備わっていても、なお、この青年が満足することの出来ない心の空洞をもっていたことを現わしています。
 
 この空洞を埋めて、充実した、満足感に満ちた人生を送るためには、永遠の命が必要だとこの青年は理解していました。しかし、その永遠の命をどうすれば自分のもとすることが出来るかが分かっていませんでした。そこで、救い主イエス・キリストのもとに来て質問したのです。

 キリストは、何かをすることによってではなくて、キリストを信じることによって手に入れることができるのでだと、教えられました。しかし、何かをして永遠の命を自分のものにすることができると信じ込んでいたこの青年は、それがまったく分かりませんでした。行いによらないで、信じることによってそれを得ることができるという、救いの道を教えられながら、それを受け入れることができなかったのです。

 永遠の命は、自分で良い行いをして得るものではありません。永遠の命は、キリストが、信じる者に一方的に授けてくださるものです。すなわち、キリストからいただくものです。しかも、無償で、すなわちただで、いただくものなのです。

 そのために必要なものは、行いではなくて信仰です。キリストの十字架による救いと、キリストの死後三日目の復活を信じる信仰です。真の信仰をもつすべての者に、分けへだてなくキリストは、永遠の命を与えてくださり、「信じる者は永遠の命を得ている」と、宣告してくださいます。信じているあなたは、永遠の命をもっているのです。


『第59回 交わる命』


 今回のテーマは「交わる命」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネの手紙11章3節です。

 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりをもつようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。 

 救い主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを、真の信仰をもって信じた者に永遠の命が与えられます。その永遠の命がどのように命の力を現わすかを、ヨハネはこのところで教えています。永遠の命の力は、信じた者の心に交わりを造り出すことにおいて力を発揮します。

 一人の子供が生まれ、その子が生きていることは、息をしている、体温がある、手足を動かす、泣くというような動きによって確認されます。霊的な世界での永遠の命も、交わりの中で生き、交わりを造り出すことにおいて確認されます。

 その交わりは、「わたしたちとの交わり」です。それは、手紙の著者であるヨハネおよびその信仰の仲間と、読者である教会員、すなわち、信徒兄弟姉妹の交わりです。永遠の命を得る、新しい命に生かされることは、この交わりの中に入れられ、交わりを造り出す者にされることです。

 真の信仰をもって、救いを与えられた者は皆、交わりの中に救い入れられます。教会は、昔から「聖徒の交わり」という言葉で言い表されて来ました。聖徒とは、特別に教会のために働いた特定の聖人ということではありません。私たちと同じ普通の信徒のことです。聖霊の力によって新しい命を与えられ、聖霊によって心の汚れをきよめていただいている、まったく普通の信徒のことです。その信徒の交わりが教会なのです。

 永遠の命は、この交わりの中で信徒一人びとりを生かし、信仰から信仰へと育てていきます。しかも、ヨハネはこの交わりは、同時に、「御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と教えています。これは、「わたしたちの交わり」の原動力が、父なる神と御子イエス・キリストによって与えられた交わりであり、その交わりに支えられて、私たちの交わりが成り立っていることを示しています。

 永遠の命は、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりを可能にし、その交わりの中で兄弟姉妹の交わりを生み出し、それを育てます。永遠の命を与えられた者はみな、交わりを大切にして信仰生活に励みます。


『第60回 知識と共にある永遠の命』


 今回のテーマは「知識と共にある永遠の命」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネの手紙1 2章24節です。

 「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう」。

 救い主イエス・キリストが、ガリラヤで公の伝道を開始されたとき、神の国を宣べ伝えて、こうお語りになりました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。求めておられることは、罪を認めて悔い改めることであり、同時に、福音を信じることです。そのためには、まず、福音を聞かなくてはなりません。

 ですから、使徒パウロが後に、ローマの信徒に宛て書いた手紙の中でこう記しています。10章17節「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。聞くことによって、語られた神のみ言葉を通して、生きておられる救い主イエス・キリストと出会います。その出会いを通してキリストを信じて救われ、罪の赦しと永遠の命を与えられます。

 このように、聞いた福音を真の信仰によって受け入れ、信じて、信仰生活のスタートを切ります。それは、新しい命、永遠の命に生かされた人生のスタートでもあります。永遠の命は知識と共にあります。

 ヨハネはこの手紙の中で、教会に入ってきた異端と呼ばれる間違った知識にまどわされている信徒に、「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」と勧めています。その最初に聞いた真の福音を心にとどめるなら、すなわち、その福音の知識が心に宿っているなら、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいることができるのです。

 永遠の命は、十字架と復活の主イエス・キリストの福音を、神の御言葉と聖霊の力によって教え、それを心に生かし強めます。そのことによって、御子と御父との交わりの中でいつも生きることができ、信仰に励むことができるようにしてくださるのです。

 信じて、あなたが与えられている永遠の命は、知識と共にあり、知識を増し加える命です。このすばらしい命が与えられていることを、確認して信仰生活に励みましょう。 


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