
『第61回 愛を生みいだす命』
今回のテーマは「愛を生みいだす命」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネの手紙14章7節です。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」。
生まれながらの罪人である私たちが、キリストを救い主と信じて与えられるのが、永遠の命です。ヨハネは福音書の中でこう書いています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。
ですから、真の信仰によって神の独り子イエス・キリストを信じた者は皆、永遠の命を与えられています。では、その命が心に宿るとどうなるのでしょうか。命は生きていますから、必ず、外に向かって生命力を発揮します。それが、互いを愛す愛となって現われるのです。
キリストは、弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と教えられました。その教えを具体的に生活の中で実行できるのは、心に永遠の命が宿っているからです。
永遠の命を宿す者は、その命において愛する力をもっているのです。救われているということは、愛さないではおれない者に変えられているということです。使徒パウロは、ガラテヤ信徒への手紙5章10節でこう教えています。「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」。
まず、神の家族、すなわち、教会の兄弟姉妹を愛するのです。そしてさらに、それ以外の人々に向かって愛の業を広げていくのです。永遠の命は愛する命です。愛さないではおれない命です。
このように、互いに愛し合うことのできる者は、一人残らず神から生まれ、神を知っているのです。すなわち、永遠の命を持っているのです。あなたの内に救いの恵みとして与えられている永遠の命が、愛することにおいてまどろんでいるということはありませんでしょうか。
それなら、今こそ、眠りから目覚めて、永遠の命にふさわしい愛を呼び覚ます時です。互いに愛し合いましょう。
『第62回 服従を生みいだす命』
今回のテーマは「服従を生みいだす命」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネの手紙1 3章22、23節です。
「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストを信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」。
前回は、永遠の命は、愛を生みいだす命であるということをお話しいたしました。その愛が神の御心に適って実を結ぶためには、掟というルールが必要です。ヨハネは、「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです」と書いています。
神の掟を守ることによって、御心に適うことが行われます。御心に適う愛の実践がなされます。それを行わせるのが永遠の命の力です。すなわち、掟に服従する命の力です。その力は心に宿ってくださった聖霊によって授けられます。
聖霊が心に宿ることによって、信仰と回心が起こります。同時に、永遠の命が授けられます。この命は、新しい命とも呼ばれます。その命が宿ることによって、心の内に残っている罪の汚れがきよめられていきます。きよめられることを「聖化」と呼びます。「聖」とは、聖書の聖です。「化」とは化学、バケ学の化です。これを一緒にして聖化と言います。
この聖化の祝福の中で、永遠の命、新しい命は、常に神の掟に従う服従を生みいだします。言葉を換えて言いますと、信仰生活は、神の掟に服従する歩みです。その服従は、神の掟を知り、喜び、感謝し、忍耐し、祈ることによってなされていきます。
恩恵の手段である神の御言葉の説教を聞き、聖礼典すなわち洗礼と聖餐あずかり、祈りを用いることによって、服従は強められ、増し加えられ、成長していきます。
永遠の命の力は、単に、信徒個人に服従への意欲と力を授け、個人の徳を高めるだけではありません。キリストの体である教会全体を生かし、秩序ある体として建て上げようとする信徒の願いと祈りと実践を強め、祝福し、教会を建て上げます。
神の掟、神の御言葉に服従する信仰こそ、永遠の命に生かされた信仰です。永遠の命は常に神の掟への服従を生みだします。
『第63回 この世との戦いを生みいだす命』
今回のテーマは「この世との戦いを生みいだす命」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネの手紙1 2章15-17節です。
「世も世にあるものも愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」。
永遠の命は、キリストを救い主と信じて、救いを与えられている者たちの内にあって、神の御心に反するこの世の原理との戦いを生み出す力です。それは、この世の神と呼ばれるサタンとの戦いに立ち向かわせる力を生みいだします。
ヨハネは、「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます」と教えています。この世にあるものの過ぎ去る性質に気づかせ、それを見抜かせる力が永遠の命に備わっています。また、永遠の命は、それに戦いをいどむ力そのものなのです。
すべての信徒がこの世の中で、この世の人々との交わりの中で生きています。すべてのキリスト者が社会の中で生活しています。それゆえこの世の人々との接触を避けることはできません。そこに当然、信仰の戦いが出て来ます。この世にある、肉の欲、目の欲、生活のおごり、すなわち、虚栄は、心の外側と内側からさまざまな仕方で、誘惑の手を伸ばして来ます。
人生の中心に神を置き、神中心に生きることから、神に背を向けて自分中心に生きようとする方向へ、思いと言葉と生活をいざないます。これに戦う霊的な力は、永遠の命の内にあります。この世の人々との交わりの中にあって、霊的な領域で、キリスト者は妥協してはなりません。使徒パウロも、「あなたがたはこの世に倣ってはいけません」(ローマ12:2)と勧めています。
永遠の命は、この世と霊的な領域で妥協しない命です。妥協に対して戦う命です。この世の本質は過ぎ去ることにあります。それに反し、神と救いの本質は永遠です。キリストにあって神を持ち、救いを持っている者たちは、この世とその原理とに対して戦い続けます。そして、ヨハネが教えているように、「神の御心を行う人は永遠に生き続け」るのです。
あなたの信仰生活に永遠の命の力があふれますようお祈りいたします。
『第64回 この世との戦いに勝利する命』
今回のテーマは「この世との戦いに勝利する命」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネの手紙1 5章4-5節です。
「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」。
神から生まれた者は、キリストを救い主と信じて、永遠の命を与えられた者たちです。それは同時に、真の信仰を持って救われ、神の御言葉に従って信仰生活をしているすべてのキリスト者のことです。
そのキリスト者の生活には、常に信仰の戦いがつきまといます。もうすでに、初代教会の時代から、信仰の面でも生活の面でも、神の御言葉を否定するさまざまな動きがありました。サタンの誘惑はそれだけ巧妙で、肉の弱さを捕えながら、信仰を堕落させようと迫ってきました。そのような中でキリスト者は、信仰をゆさぶられ、時には誘惑に負けて罪を犯すこともあり、自分自身のもつ弱さや怠慢によって滅入ってしまったり、すっかり、落胆することもありました。
しかし、キリスト者が神から生まれた者として、永遠の命を内に宿し、その命よって生かされ導かれている限り、打ちのめされてすっかり敗北してしまうことはありません。必ず立ち上がる道と勝利のゴールを授けられます。この手紙の3章8節後半で、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」と、述べられています。
キリストは十字架で罪とサタンに勝利し、復活においてその勝利を公に宣告されれました。信じる者は皆、この勝利にあずかる者とされたのです。それは、地上の信仰生活での誘惑に勝利する勝利であると共に、最後的な、終末における究極的な勝利でもあります。
永遠の命は、誘惑への勝利の力でもあり、究極的な勝利への保証を与え続ける力でもあります。「だれが世に打ち勝つか。イエスを神の子であると信じる者ではありませんか」。
信じて生きる、あなたではありませんか。永遠の命は、勝利を生み、勝利への保証を与え続けます。なぜなら、それは、キリストの命だからです。
『第65回 悟りを生み出だす命』
今回のテーマは「悟りを生みいだす命」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネの手紙1 5章13節です。
「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」。
救い主イエス・キリストを信じて、信仰生活を続けるときに、大切なことはヨハネがいっていますように、「永遠の命を得ていることを悟る」ことです。永遠の命を持っているとの理解と確信をもつことです。
ある牧師から聞いた話しですが、その教会の信徒の一人に、ある方が、「あなたは、ほんとうに救われているんですか。永遠の命をもっているんですか」と聞いたそうです。すると、質問を受けたその信徒は、自分が本当に救われているのか、永遠の命を持っているのかについて、心の中で疑問が起き、不安になり、救われているかどうか分からなくなってしまったそうです。そして、最後的には、教会に来なくなり信仰から離れてしまったそうです。
これは、心の痛む話しですが、これと同じようなことはないわけではありません。ですから、救いを与えられていることと、永遠の命を授けられていることを悟り、確信をもつことは、とても大切なことです。もちろん、確信は、その性質上人それぞれです。あるときは強く、あるときは弱くなるという傾向があります。
しかし、真の信仰によって信じた信徒の心から、永遠の命がなくなってしまうことはありません。しかも、その永遠の命は、それが与えられていることをその人に教え、悟らせる働きをします。そのことによって、永遠の命が与えられていることを、神の約束、神の御言葉の保証によって、確信させてくれるのです。
救い主イエス・キリストは、こう教えておられます。ヨハネによる福音書第6章38、39節「わたしが天から降ってきたのは、自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」。
キリストは、最後まで、一人も失わないで、終わりの日に復活させてくださるのです。永遠の命は、このキリストの御言葉とお働きによって保証されているのです。永遠の命はその真理を悟らせてくれるのです。
『第66回 食べる信仰 〈1〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の第1回目です。神の御言葉は旧約聖書エレミヤ書15章16節です。
「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって、呼ばれている者です」。
私たちの回りでは、食べるということが大きな関心事になっています。テレビの番組や新聞の紙面、週刊誌などさまざまなメデアを通して、料理の仕方、おいしい食品を売る商店、あるいは、栄養食品の紹介などが次々と報ぜられています。
それは、それだけ多くの人が食べることに関心をもっていることの現われでしょう。食べることには必然性があります。なぜなら、食べなければ人間は生きられないからです。また、食べなければ健康が保たれません。少なくとも、働くためには、一日に必要なカロリーは補給しなくてはなりません。
食べることは、日常生活の中で生き、働きつづけるためには絶対に必要です。それと同じように、霊的な世界でも食べることは絶対に必要です。何を食べるのかというと、エレミヤが、主の御言葉が見い出されたとき、それをむさぼり食べたといっていますように、神の御言葉を食べることです。
神の御言葉をたべるとは、どういうことでしょうか。それは、信仰という口で御言葉を受け入れ、それを腹の中に収めることです。すなわち、信仰によって受け入れ、受け入れてその御言葉に信頼することです。
エレミヤは、信仰の基本を私たちに教えてくれています。信仰は、神の御言葉を聞くことから始まります。キリストの十字架による救いを信じたいと願うときには、まず、神の御言葉である聖書を読み、特に、教会の礼拝に出席して牧師の説教をきくことが大切です。
いろいろな事情で教会に行けない方は、このような電話によって福音を聞くとか、ラジオによって福音を聞くとか、最近はテレビでの伝道もなされていますので、それらの手段をお用いくださいますように。
あなたが神の御言葉を喜んで食べる信仰生活が実現しますように、お祈りいたします。
『第67回 食べる信仰 〈2〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の2回目です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書20章9節です。
「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」。
23日の日曜日は、今年のイースターになります。今週は受難週です。イースターは、春分の日の後の最初の満月の後に来る最初の日曜日となっていますので、毎年、日が違います。
ヨハネによる福音書の20章1節は、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして墓から石が取りのけてあるのを見た。」と、書いています。その墓は、十字架上で息を引き取られた、救い主イエス・キリストの遺体が納められていた場所です。石が取りのけられていたその石とは、墓の入り口をふさいでいた石です。ユダヤの墓は、横穴式で掘られた穴に、布でくるんだ遺体を納め、入り口を石でふさぐ式のものでした。
マグダラのマリアは、墓の入り口から石が取りのけてあるのを見て、シモン・ペトロともう一人の弟子、ヨハネの所に行って、そのことを語り告げました。それを聞いて二人は墓に走って行きました。ヨハネの方が早く着いたのですが、中をのぞいただけで墓の中には入りませんでした。
少し遅れてかけつけたペトロは、墓に入って、イエスの遺体がすでになく、遺体を包んでいた亜麻布がおいてあるのを見ました。それからヨハネも墓に入りました。
二人は、この事実を確認してマリアが、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と言った言葉を信じたのでした。
しかし、救い主イエス・キリストが必ず死者の中から復活することになっているという、聖書の言葉を、まだ理解していませんでした。キリストと3年間も一緒に寝食を共にして教えをじかに聞いていながら、聖書の意味を理解していなかったのです。すなわち、聖書のみ言葉を、口にしていながら、腹に納めていなかったのです。
もし、神の御言葉を信仰によって食べていたら、すなわち、理解していたら、真っ先に復活を信じたことでしょう。神の御言葉によって、見ないで信じる信仰が本物の信仰です。
『第68回 食べる信仰 〈3〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の3回目です。神の御言葉は旧約聖書エゼキエル書3章 1-3節です。
「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。』この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。わたしが口を開くと、主はこの巻物を食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは密のように口に甘かった」。
これは、預言者エゼキエルに与えられた神よりの啓示です。目の前にある巻物を食べよというのです。旧約聖書の御言葉は、今のような本とはちがい、牛や羊の皮でできた巻物に書かれていました。巻物を食べるとは、そこに書かれている神の御言葉を食べるということです。すなわち、御言葉を信じるということです。
ここで、注目したいことは、「わたしが口を開くと、主はこの巻物を食べさせ」られた、という点です。預言者エゼキエルが口を開くと、主なる神がこの巻物をたべさせてくださったというのです。
幼児や身体の不自由な方が、家族や看護人に、食べ物を食べさせてもらうということは、普通にあることです。けれども、大の大人、それも健康そのものの大人が、食べさせてもらうとは、意外なことではないでしょうか。
ところが、神の御言葉に関してはこれが当然のことなのです。生まれながらの罪ある人間は、預言者エゼキエルに限らず、一人残らず皆、食べる力をもっていないのです。食べる力が与えられることによって、はじめて食べることができるようになるのです。
その力は、聖霊によって、神を信じる者に与えられます。使徒パウロはコリント教会の信徒にこう書き送っています。1コリント12章3節後半、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」
エゼキエルの口に、主なる神は巻物、すなわち、御言葉を食べさせ、腹を満たして下さいました。エゼキエルには、御言葉は密のように甘かったのです。それを預言者として腹に納めて、民に語ることができました。食べるとは信じることです。聖霊の力によって信じることです。御言葉と聖霊を与え、信じる力を賜わる神に信頼いたしましょう。
『第69回 食べる信仰 〈4〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の4回目です。神の御言葉は旧約聖書エレミヤ書20章9節です。
「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。
これは、預言者エレミヤが経験したことの記録です。このすぐ前の8節の後半には、「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。」とあります。神の御言葉を語る預言者エレミヤは過酷な状況に置かれていました。
その状況の中で、主の名を口にすまい、もう主の名によって語るまい、と思っても、その思いはかなえられませんでした。というのは、エレミヤが主から受けた御言葉、エレミヤが食べて腹に納めた御言葉は、心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がったからです。
後に、救い主イエス・キリストが、革袋のたとえを話されました。新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはならない、なぜなら、新しいぶどう酒の発酵力が強くて、古い革袋は破れてしまうからだ、というのです。
新しいぶどう酒が発酵するように、主の御言葉がエレミヤの心の中、骨の中で発酵し、その力を押さえることができなかったのです。エレミヤの腹におさまった神の御言葉には、エレミヤ自身がそれを押さえつけることのできない力があったのです。
これが、神の御言葉に内在する神の力です。新約聖書ヘブライ人への手紙の記者は、4章12節でこう書いています。というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。
この神の偉大な力と権威をもっているのが神の御言葉です。エレミヤに御言葉を授けてくださった主は、今、あなたに、この同じ偉大な力をもつ御言葉を、神の言葉である聖書を通して与えられているのです。御言葉が腹にはまった時には、その力を押さえることができません。すなわち、信仰が芽生え、目覚めてきたときには、だれもそれを押さえることはできないのです。
『第70回 食べる信仰 〈5〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の5回目です。神の御言葉は旧約聖書エレミヤ書15章16節です。
「あなたの御言葉が見い出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって、呼ばれている者です」。
預言者エレミヤは、民の不信仰と神への背反の中で、孤立した苦しい状況にありました。その中で預言者としての努めをなしつづけなくてはなりませんでした。
そのような状況の中で、エレミヤは神の御言葉を見い出したのでした。そして、エレミヤは、その神の御言葉をむさぼり食べたのでした。ちょうど、何か月か雨もない乾いた大地に降り注いだ雨が、地に吸い込まれるように、エレミヤの心に御言葉は吸い込まれました。
信仰生活の中で御言葉をむさぼり食べることが、いかに大切なことかが教えられています。今は、神は、ご自身の御言葉である聖書をとおして語りかけられますから、聖書を自分で読むこと、また、特に、教会の礼拝に出席して牧師の説教を聞くことによって、信仰という腹が満たされます。神の御言葉を食べることは、聞いて信じることです。
神の御言葉にくらいつき、むさぼり食べることを、信仰生活の中心に置くとき、エレミヤが「あなたの御言葉はわたしのものとなり」と言っていますように、御言葉が腹にはまります。そして、「わたしの心は喜び躍りました」という信仰の体験をすることができるのです。
御言葉を聞いて信じ、信じて従うとき、御言葉の力によって心は恵みで満たされ、喜び躍るのです。信仰生活は、喜びであるということを、体験するのです。後に、救い主イエス・キリストは、弟子たちにこう教えられました。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネによる福音書15章11節)。
神の御言葉と聖霊の力によって、心が満たされ、喜び躍り、キリストの喜びを自分の喜びとして生きるのが信仰生活です。神の御言葉によってあなたの心が常に喜び躍るものでありますようにお祈りいたします。
『第71回 食べる信仰 〈6〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の6回目です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書6章48-50節です。
「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない」。
救い主イエス・キリストは、「わたしは命のパンである」とおっしゃって、自ら天から降って来られた命のパンであること自己啓示されました。そのとき、「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」と、お語りになりました。
昔、私などが子供の頃、「森永マンナ」というビスケットがありましたが、今はどうでしょうか。そのマンナの源が、ユダヤ人の先祖が荒野で神から与えられたマンナでした。
このマンナは、出エジプトしたあと、40年間、荒野でイスラエルの生活を支えた食物でした。出エジプトしたイスラエルの共同体は、シンの荒野で食物が不足してつぶやきました。そのとき、神が民に与えられたのが、このマンナという食べ物でした。
詩編78編25節では、「人は力ある方のパンを食べた。彼は食べ飽きるほどの糧を送られた。」とあります。神は、安息日をのぞいて、毎朝、イスラエルの宿営の周囲に露を降らせられました。それが乾くと、地面には薄いうろこのようなもの、地上の薄い霜のようなもとのとなりました。これを見た人々は、ヘブル語で「マーン・フー」(これはなんだろう)と言いました。これから、それが、「マーン」マナと呼ばれるようになりました。
イスラエルの先祖は、この神よりのマンナ、すなわち、マナを与えられ40年の間、命を保たれたのでした。指導者モーセはその40年間を振り返り語った中でこう言っています。旧約聖書申命記8章3節、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけでいきるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。
人間の究極的な命の源は、主の口から出るすべての言葉です。すなわち、その言葉の背後にある神の意思です。日毎のマナ、日毎のパンではなくて、人は、神の意思によって生きるのです。その神の意思が今日も、あなたに生き生きとて働いているのです。
『第72回 食べる信仰 〈7〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の7回目です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書6章54-55節です。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」。
救い主イエス・キリストは、男の数でおおよそ五千人の人々に、大麦のパン五つと二匹の魚を用いて、食べ物を与えられました。それを食べてお腹を満たした人々の反応はどうだったでしょうか。
目の前でなされた奇蹟に感動し、「まさにこの人こそ、世にこられた預言者である」と言い、イエスをこの世の王にしようとして、連れていこうとしたのです。これを知りイエスは山に退かれました。
これらの人々は、イエスがなさったことには感動しましたが、イエス・キリストがどういう方であるかを正しく知ろうとはしませんでした。そのために、イエスはご自分が命のパンであることを、人々に説き明かされたのです。この命パンを食べなければ、たとえ、肉体を養うパンをこの地上でどれほど多く食べたとしても、霊の命を得ることも、養うこともできないのです。
イエスの肉を食べ、血を飲むとは、イエス・キリストを正しく知り、信じることです。イエス・キリストの人格とそのお働きの全体が、神の永遠の御子、父なる神から遣わされた救い主のものであるとを信じることです。
イエスの肉を食べ、血を飲む者は、「永遠の命を得る」のです。口から体内に入るパンは肉の命を支えるのに役立つにすぎません。ところが、心の口で食べ、心の内に入る命のパンは、霊の命を新たにしその命を豊かに支えるのです。
それだけではなくて、「終わりの日に復活させて」いただけるのです。イエス・キリストを救い主と信じる者は救いを与えられ、聖霊の力で新しい命を与えられるだけではなくて、来たるべき時に、肉体の復活をも与えられ、人間性全体の救いの完成が与えられます。
この日の到来を、信仰をもって待ち望もうではありませんか。
『第73回 食べる信仰 〈8〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の8回目です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書6章56節です。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。
救い主イエス・キリストの肉を食べ、血を飲むことについては、何回も繰り返して同じことをお話しいたしましたので、お聞きくださった方はお分かりと思います。しかし、今日初めて聞かれる方にとっては、何のことか少しも分からない、ということもあると思います。
そこで、もう一度結論だけをお話しいたしますと、キリストの肉を食べ、血を飲むとは、救い主イエス・キリストの人格とみ業の一切を信じることです。「信じる」ということが、「食べる」という言葉で教えられているのです。
ここで注目したいことは、主イエス・キリストの肉を食べ、その血を飲む者が、いつも主の内におり、主もまたその人の内にいつもいてくださるということです。これは、信じる者と救い主イエス・キリストが霊的に一つに結ばれるということを現わしています。キリストと信じる者の霊的な結合であり一致です。
ヨハネによる福音書15章の最初のところで教えられている「ぶどうの木のたとえ」でも、主イエスは次のようにお語りになっておられます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。
主の肉を食べ、その血を飲む者が、主イエス・キリストにつながっているという点と、「わたしもあなたがたにつながっている」という、主の側からのつながりが一つとなって、信仰は実を結びます。しかも、そのつながりは、「いつも」であって、決して、断絶することはありません。
この相互の内在、内住と霊の命の交流によって、信仰はつねに生きた信仰となっているのです。霊的な、生命的な、人格的な結合と一致が双方からの相互の交流となるところで、生きた信仰が実を結び、その結合が固ければ固いほど、豊かに実を結ぶことができるのです。
あなたは、どのようにキリストに信仰によって結ばれているでしょうか。
『第74回 食べる信仰 〈9〉』
さて、今回のテーマは「食べる信仰」の9回目です。神の御言葉は新約聖書ルカによる福音書22章19節、20節です。
「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」。
さて、今回からは、教会の礼拝の中で行なわれる聖餐式という儀式の中で、実際にパンを食べ、杯を飲む、すなわち、杯の中のぶどう酒をのむことについて考えましょう。教会に行って礼拝の中で、聖餐式という儀式が行なわれているのを初めて見て、驚かれる方もあるのではないでしょうか。それは、自分が教会に対してもっていたイメージとまったくことなることがそこで行なわれているからです。
行なわれていることは、テーブルの上に準備されたパンとぶどう酒を、司式者である牧師から受けて、教会の役員である長老がそれらを会員一人びとりに持ち運び、会員がそのバンを食べ、ぶどう酒を飲むことです。
すでに見てきましたように、永遠の命のパンであるイエス・キリストを食べること、すなわち信じることと、この聖餐式でパンを食べ、ぶどう酒を飲むことは、違った側面をもっています。というのは、すでに、救い主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた信者だけが、このパンを食べ、ぶどう酒を飲む祝福に参加することができるからです。
「救い主イエス・キリストを信じなさい」とは、すべての人に宣べ伝えられ、語りかけられるメッセージです。ところが、聖餐式に参加しなさいと呼びかけられるのは、洗礼を受けた信徒だけに限られているのです。それは、聖餐式は、キリストの十字架の死を記念するために行なわれるもので、キリストの十字架の死の意味を理解する者だけが参加するように招かれ、呼びかけられ、許されているものだからです。
『第75回 食べる信仰 〈10〉』
さて、今回のテーマは「食べる信仰」の10回目です。神の御言葉は新約聖書マタイによる福音書26章26節から28節です。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」。
聖餐式という儀式の中では、実際にパンを食べ、杯を飲む、すなわち、杯の中のぶどう酒を飲むことが行なわれます。主イエスは、最期の晩餐の席で、実際にご自分の前にあるパンを手に取り、感謝の祈りをささげ、それを裂き、弟子たちに与えられました。
そのとき、パンについてはこうお語りになりました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」このみ言葉から明らかなことは、このパンを取って食べる聖餐式が、救い主イエス・キリストご自身によって定められたということです。
ですから、真の信仰によって主に仕える地上の教会は、聖餐式を非常に大切にしてきました。私ども改革派教会では、教会のそれぞれの判断で、聖餐式を毎週守る、月に2回以上守る、月に1回だけ守る、などという仕方でその大切さを表わしてきました。
裂かれたパンを、主イエスは、「これはわたしの体である。」と言って、弟子たちにお渡しになりました。すなわち、十字架上で裂かれるご自分の体を差し示すためのパンとして、弟子たちにお渡しになったのです。それは、弟子たちが救い主イエス・キリストの十字架の死を記念するためのものでした。それは、一時的なものではなく、永くキリストの唯一の犠牲とその祝福を覚えるためのものでした。
ですから、洗礼を受けてからは、聖餐式には熱心に、喜びと感謝をもって出席するのです。
『第76回 食べる信仰 〈11〉』
さて、今回のテーマは「食べる信仰」の11回目です。神の御言葉は新約聖書ルカによる福音書第22章19、20節です。
「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行ないなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」。
聖餐式でパンとぶどう酒が用いられるのは、救い主イエス・キリストがご自分の死を記念するために、その二つの品を選び用いられたからです。
昔、山の手線の中で、どこかの神学校の学生と思われる二人が、大きな声で話しているのが聞こえてきました。話題は聖餐式についてでした。要点は、聖餐式はパンとぶどう酒でなくてもできるのではないか、日本では、「たくわんとお茶」でやっても、差し支えないのではないかというものでした。
これは無茶な話しというほかありません。聖餐式でパンとぶどう酒を用いるのは、キリストご自身がこの二つの品を選ばれたからです。そこで、通常、聖餐式のためのパンとぶどう酒を、普通に用いられるパンとぶどう酒から聖別するといいます。
聖別するとは、普通のパンとぶどう酒を聖餐式で用いるために、選び分かつことです。すなわち、聖餐式用に取り分けることです。聖餐式をお定めになった救い主イエス・キリストは聖なる方であり、聖なるキリストがお定めになった聖餐式も聖なるものですから、聖なるもののための使用に選びわかつことです。これが、聖別です。
クリスチャンは、普通の人の中から、神の恵みによって、神の用のために聖別された人々です。聖別とは、使用目的が聖であるものために選び別かつことです。聖別されているクリスチャンが、聖別されているパンとぶどう酒を食べ、飲むことによって、聖なるキリストの死を記念するのです。
聖餐式が終われば、使用目的は終わったのですから、普通のパンとぶどう酒にもどります。
『第77回 食べる信仰 〈12〉』
さて、今回のテーマは「食べる信仰」の12回目です。神の御言葉は新約聖書コリント信徒への手紙1 第10章16、17節です。
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」。
キリストの十字架の死を記念する聖餐式で用いられるパンとぶどう酒について、さらに考えることにいたしましょう。使徒パウロは、コリントの教会員に、聖餐式で用いられるぶどう酒の入った杯を「神を賛美する賛美の杯」と言い、パンについて「わたしたちが裂くパン」と言っています。
その杯の中のぶどう酒を飲み、裂かれたパンを食べることを、「キリストの血にあずかること」、また、「キリストの体にあずかること」と教えています。では、その「あずかる」とはどういうことでしょうか。
そこで考えられることの一つは、ぶどう酒とパンが、何らかの手段を通して、実際にキリストの血と体に変わると主張することです。そうすれば、直接、キリストの血を飲み、裂かれた体を食べることになりますから、じかに「あずかる」ことができると、主張することができるようになります。
しかし、ぶどう酒とパンを、本物のキリストの血と体に変えることは、どんなに腕のきれる魔術師にとってもできない相談です。ところが、それをやってのけたのが、カトリック教会です。私ども改革派教会では、「教理問答」を用いて聖書を学びますが、カトリック教会では、「カトリック要理」という書物を用います。
その書物の108の中に、「聖体におけるキリストの現存」という項目があり、そこには、こう書いてあります。「キリストの制定の言葉にしたがって、パンとぶどう酒はキリストの御からだと御血に変化します」。
パンとぶどう酒の属性はそのままだが、実体が、キリストの体と血に変わるというのです。これを、実体変化、あるいは、化体説という言葉で言い表します。
聖書はそう教えているでしょうか。いいえ、決して教えてはいません。
『第78回 食べる信仰 〈13〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の13回目です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第14章25-26節です。
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」。
聖餐式において、キリストの死を記念してパンを食べぶどう酒を飲むとき、キリストはどのようにそこにおられるのでしょうか。すでに見ましたように、パンとぶどう酒が、それぞれの属性は同じでも、本質的にキリストの裂かれた肉と流された血に変わるという考えは、聖書の教えではありません。また、キリストの人間としてのご性質が、神としてのご性質に溶け込んで、そこにおられるというのでもありません。
キリストは、ご自身が十字架の死後三日目に復活し、天に上られた後で、この地上には、ご自身が父なる神から受けてお遣わしになる聖霊において、共におられることを繰り返して教えておられます。すなわち、聖霊による霊的な実在です。復活して栄光化され、天に上られたた肉体そのものは、再臨の日までこの地上にお降りになることはありません。
使徒パウロは、聖霊において、霊的に存在しておられるキリストとの一致を、次のように言い表しております。ガラテヤ信徒への手紙第2章20節
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
聖餐式において、キリストは霊的にその場に存在しておられ、信徒の心に宿って、信仰の養いと成長を与えられます。その祝福の中で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」という、キリストとの結合を与えられるのです。パンを食べぶどう酒を飲むことは、この聖霊においてその場におられるキリストとの交わりをいっそう固いものとしていただくことなのです。
ですから、信徒は皆万障を繰り合わせて聖餐式に出席いたしましょう。
『第79回 食べる信仰 〈14〉』
今回のテーマは「食べる信仰」の14回目です。神の御言葉は新約聖書コリント信徒への手紙1 第11章21節です。
「なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」。
聖餐式において、どのように、キリストの裂かれた体を食べ、杯を飲むかについて考えてきました。
今回は、聖餐式からはなれて、もう一つ教会でもたれる愛餐会という交わりについて考えて見ることにいたします。
愛餐会とは、聖餐式以外の教会でもたれる食事の交わりのことです。恐らく、多くの教会でお昼の食事を一緒に食べることがあるのではないでしょうか。それが、お弁当屋さんから届けられた弁当であれ、教会の兄弟姉妹がこしらえたものであれ、お昼を食べ、食べながら話し合うという交わりが愛餐会なのです。
それは、教会によってはとても楽しい交わりとなります。ところが、当時のコリント教会では、節度のない、霊的な秩序を守ることができない状態になってしまっていました。その端的な現われは、「各自が勝手に自分の分を食べてしまう」ということに見られます。
同じ教会の他の兄弟姉妹に対して、何の配慮もなしに、自分たちだけで勝手に食べたり飲んだりしたので、その場には、食べる物をもたず、食事にありつけない空腹な者がいました。その反面、満腹になって酒に酔い、千鳥足で歩く者さえいる始末でした。
教会はキリストのからだです。そこには、たとえ、お昼を食べることにおいても、霊的な交わりとしての秩序がなくてはなりません。特に聖餐式が行なわれる日に愛餐会を持つ場合には、他の兄弟姉妹に対する愛の十分な配慮がなくてはなりません。その秩序があるところで、聖餐式は正しく守られていくのです。
愛餐会という食事の交わりは大切です。その食事の交わりを通して、キリストの香りを放っていくことが、常に求められているのです。
『第80回 成長する信仰 〈1〉』
「食べる信仰」というテーマについて考えてきましたが、今回からは、「成長する信仰」について考えることにいたします。神のみ言葉は、ペトロの手紙1第2章2節です。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の父をしたい求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」
信仰にはスタートがあります。人生に誕生というスタートがあるように、信仰にも出発点があります。その信仰生活の出発点は、通常、洗礼を受けたときと考えることができます。
洗礼を受けて、信仰生活のスタートを切ることは、ある人にとっては青少年時代であったり、また、他の人にとっては高齢に達してからであったりします。誕生ということについては、信仰の場合は、人間が肉体をもって生まれることとはちがい、霊的に誕生することですから、年齢に違いがあるのが当然です。それを気にする必要はありません。
生まれたばかりの赤ちゃんは、お母さんの乳房を小さな口に含み、乳を飲んで、一日一日成長していきます。成長するのは命があるからです。信仰の場合も、同じように、霊的に成長する日々を送ります。信仰には命があり、成長することを神は期待しておられます。
信仰に入るとは、霊的に成長する道を歩み始めることです。成長する人生の目的をもった歩みを歩き始めることです。信仰生活に入ると、目標のない人生を生きることができなくなります。
常に、成長というはっきりした目標が心に宿ります。そして、成長するためには、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳をしたい求め」るのです。
乳を飲まずに成長できる赤ちゃんはおりません。もし、飲まなければ、弱り衰え、ついには餓死する以外にありません。
ですから、すべてのクリスチャンは、その信仰のスターとにおいては乳を飲む乳飲み子なのです。生まれてすぐに大人になる人はおりません。大人になるためには、成長という時間が必要なのです。その時間の中での歩みを大切にして生きるのが信仰生活です。
Copyright (C) 1998-2008
Rev. Yutaka Maeda. All rights reserved.

|