
『第81回 成長する信仰 〈2〉』
「成長する信仰」の第2回目です。神のみ言葉は、マタイによる福音書第7章24節です。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」
信仰生活は、家を建てるのによく似ています。救い主イエス・キリストは、山上の説教の中で、家と土台をたとえにして、真の信仰生活がどのようなものであるかを教えられました。
信仰生活は、岩を土台とする堅固な基礎をもっていなくてはなりません。そうでないと、嵐が襲ったときに、土台が崩れ、ひとたまりもなく、家は倒壊し押し流されてしまうからです。
これは、日常生活の中で体験することで、非常に分かりやすい教えです。このように、信仰生活でも、そのスタートにおいて土台を作る作業を忠実にすることが、将来の成長のカギなのです。
ところが、ある教派の教会、また、ある牧師の中には、そのことにほとんど配慮せずに、洗礼を受けることを勧め、「信じます。」というと、すぐに洗礼を授けてしまうところがあります。しかし、これはとても危険なことです。私たちは少なくとも、信仰生活の常識とでもいうべき、基本の基本、すなわち、土台づくりをしっかりしなくてはなりません。
その土台を、改革派教会では、6つの項目にまとめ、それを、洗礼式の中で受洗者に誓約するよう求めています。誓約の条項は次のとおりです。
| 1
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あなたは、天地の造り主、唯一の生ける真の神のみを信じますか。 |
| 2
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あなたは、自分が神のみ前に罪人であり、神の怒りに値し、神のあわれみによらなければ、望みのないことを、認めますか。 |
| 3
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あなたは、主イエス・キリストを、神のみ子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみより頼みますか。 |
| 4
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あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべととしてふさわしく生きることを、決心しますか。 |
| 5
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あなたは、最善をつくして教会の礼拝を守り、その活動に奉仕し、教会を維持することを、約束しますか。 |
| 6
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あなたは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規との服し、その純潔と平和とのために努めることを約束しますか。 |
洗礼を受ける前に、これらのことについて、良く学ぶことが、大切な土台作りの第一歩です。
『第82回 成長する信仰 〈3〉』
「成長する信仰」の第3回目です。神のみ言葉は、ヘブライ人への手紙第5章12、13節です。
「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子だからです。」
すべての信徒が信仰の幼子の状態からスタートすることを、前々回、お話しいたしました。新しい命の誕生からのスタートです。そして、スタートはゴールを目指す歩みの出発点なのです。そのゴールに、生き生きとした姿で到着するか、それとも、疲れ果ててへとへとになって到着するか、あるいは、途中で倒れて到着できないかは、それぞれの信仰生活の歩み方によって決まります。
そこで、覚えたいことは、「あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、」というみ言葉が差し示していることです。すなわち、幼子から少年、青年を経て大人になり、教師の任務を担っていなくてはならない、と言われていることです。
それが、当然のこととして期待されているのです。その期待に反して大人への成長の歩みを放棄し、怠慢に過ごした信徒に、この手紙の記者は厳しい言葉で、未成熟の現状を突いて悔い改めを求めているのです。
言葉を換えてて言いますと、教師への成長は当然のこととして期待されているということです。それが、キリストを救い主と信じたすべての信徒に、キリストご自身が期待しておられることなのです。キリストご自身も、弟子に対して、「信仰の薄い者たちよ。」と、嘆きの言葉を発しておられます。
信仰があっても、信仰が薄いままでいてはならないのです。救い主イエス・キリストは、弟子たちが信仰において大人となることを期待しておられるのです。それは、キリストを救い主と信じて生きるすべての教会員においても同じです。
すべてのクリスチャンが、主から成長することを期待されているのです。その期待の目をもって、キリストは、信じるあなたを導いておられるのです。クリスチャンになるということは、キリストから成長を期待される信徒になることなのです。
『第83回 成長する信仰 〈4〉』
「成長する信仰」の第4回目です。神のみ言葉は、マタイによる福音書第22章37、38節です。
「イエスは言われた。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」
信仰の成長は、心をつくし、精神をつくし、思いをつくすことに深く関係します。これは、モーセが申命記の中で旧約の民イスラエルに語った言葉に呼応するものです。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6章4、5節)
このように、旧約時代も新約時代も、主の民が求められていることは同じです。すなわち、信仰が成長するためには、心と精神と思いのすべてをあげて神を愛することです。人間性の全体をあげて、総力をあげて神を愛すことです。
心で信じ、心で神を愛しなさいと求められていますが、心は、知識と感情と意思のコントロールタワーです。心で神を愛すとは、全人格をあげて神を愛しなさいということです。信仰は、生ける真の神との全人格をあげての交わりであり、交わりの中での生きた営みです。
それは、神の御言葉の教えに基づき、聖霊の内なる導きを得てなされる、神との全人格的な交わりにほかなりません。ですから、頭だけ、知識だけでの信仰は、霊的に成長することはありません。そのことは、感情と意思についてもまったく同じことが言えます。円満な信仰の成長と円満な人格の形成は、手をたずさえています。
そこで、信仰の成長のためには、心を大事にする習慣を身につけなくてはなりません。箴言の記者は、第4章23節でこう述べています。
「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」
一度限りの人生で守ろうと思うもの、守らなくてはならないと考えているものが多くあるのではないでしょうか。しかし、その中のどれが一番大事なもので、守るに値するものであるかといえば、「心」なのです。この心の成長が信仰の成長そのものなのです。
『第84回 成長する信仰 〈5〉』
「成長する信仰」の第5回目です。神のみ言葉は、ローマの信徒への手紙第10章9節です。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」
前回は、信仰の成長は心の成長であるという点に触れました。そして、心は知識、感情、意思のコントロールタワーであるとお話しいたしました。
心で信じるということは、知識で信じ、感情で信じ、意思で信じることです。パウロは、「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と述べています。
心で信じる信仰は、知、情、意の全人格が関わる営みです。知識で信じるとは、神の知識と知恵を自分の知識と知恵にすることです。感情で信じるとは、神が喜ばれることを自分の喜びとし、神が悲しまれることを自分の悲しみとすることこです。意思で信じるとは、神が実行するように求めておられることを、決断して自ら実行し、してはならないと禁じておられることを、実行しないと決断して、行なわないことです。
心で信じる信仰は、全人格を神に委ね、キリストに委ねることです。ですから、十字架の死後三日目に、死人の中から復活したキリストを自分の救い主と知り、認め、復活したキリストを自分の喜びとし、復活したキリストの御心と御命令を自分の意思として、その御心に服従することです。
信仰が成長することは、このように、復活したキリストを知る知識において成長することであり、復活したキリストを自分の喜びとする感情において成長することであり、復活したキリストの御心に服従し、それを行なうことにおいて成長することです。
この全人格、全人間性の成長が、信じるすべてのものに神から求められていることであり、同時に、成長への信任を与えられていることです。
そして、必ず成長することができるように、神の御言葉と御霊が与えられ、それを通してキリストが与えられているのです。成長への希望の光は復活したキリストです。
『第85回 成長する信仰 〈6〉』
「成長する信仰」の第6回目です。神のみ言葉は、新約聖書ペトロの手紙1第2章2節です。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」
心で信じ、全人格が成長する信仰の成長の秘訣を、ペトロはこうに教えています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めよ。」と。
慕い求めなくてならないのは、「混じりけのない霊の乳」です。赤ちゃんの健康にとって混じりけのない乳がどんなに必要か、赤ちゃんだけでなくて大人にとってもどんなに必要かということを、私たちは最近の雪印乳業の事件をとおして深く印象づけられました。
もし、混じりけの入っているミルクを飲み続けたら、健康は次第にそこなわれ、病気になってしまいます。それによって命を失う危険さえも起こります。
霊的な世界でも同じことです。混じりけの入っている乳を飲みつづければ、信仰は病にかかり、健全な成長ができないばかりか、信仰を失う危険さえ出てきます。そこで、大切なことは、混じりけのない乳を出す母親がそこにいなくてはならないということです。
では、その母親とはだれのことでしょうか。エフェソの信徒への手紙第4章11節はこう教えています。
「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」
これは、復活して天におられる教会のかしらキリストが、地上にあるキリストの体である教会に与えてくださった、福音に仕える職務です。その職務にある人が選ばれ召されるのです。これが霊的な混じりけのない健全な乳を出す母親なのです。
私ども日本キリスト改革派教会の信仰告白基準文書の一つであるウエストミンスター大教理問答問158は、こう告白しています。「神のみ言葉は、だれによって説教されなければならないか。」答「神のみ言葉は、十分に賜物を与えられ、正当にその職務に認定され召された者によってのみ、説教されなければならない。」
今、教会とって必要なのは、混じりけのない乳を出す牧師、伝道者、宣教師です。その乳すなわち説教によって養われて、信仰の成長が与えられ、ついには救いの完成へと到達するのです。
『第86回 成長する信仰 〈7〉』
「成長する信仰」の第7回目です。神のみ言葉は、新約聖書ローマの信徒への手紙第10章17節です。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まります。」
前回は、信仰が成長するためには、今うまれたばかりの幼子のように、混じりけのない霊の父を慕い求めなくてはならないと勧められいることについて、考えました。
そこで、混じりけのない乳を出す母親の立ち場に立つ牧師、教師、宣教師の責任が重大であることを指摘しました。それらの人々の説教が乳そのものですから、語られる説教が、信徒の信仰の成長を決定的に左右するものとなります。
もちろん、その説教された神の御言葉を用いて、聖霊なる神が働いてくさることによってのみ、新しい命の誕生も生まれた命の成長も与えられるのです。
使徒パウロが、フィリピで福音を宣べ伝えたとき、ティアティラ市出身で、紫布を商うルディアという婦人もその話しを聞いていました。そのとき彼女の身に起こったことについて聖書はこう証ししています。
「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」(使徒言行録16:14)。パウロの説教を聞いていたルディアの心に、聖霊が超自然的に働いて、その心を開かれたのです。すなわち、新しい命を授けてくださったのです。そのことによって、さらに注意深く、パウロの説教を神の言葉として聞くことができるように変えられたのです。
ルディアは、すぐに、家族と共に、主の救いを信じて洗礼を受けました。この救いの体験は、たまたま、パウロが数日間滞在したフィリピで起こったことでした。受洗のきっかけは、パウロの説教を聞いたことによります。
信仰の成長がスタートするのは、説教される神の言葉を聞いて、信じたときからです。ですから、信仰の誕生のためにも、信仰の成長のためにも、聞くことを大切にしようではありませんか。
『第87回 成長する信仰 〈8〉』
「成長する信仰」の第8回目です。神のみ言葉は、新約聖書テサロニケの信徒への手紙1 第2章13節です。
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じてあなたがたの中に現に働いているものです。」
信仰が成長するためには、神の言葉を聞く、神の言葉の説教を聞くことが大切であるということを、前回お話しいたしました。もちろん、耳の不自由な方々のためには、教会はそれに対応する配慮をしくてはなりません。手話通訳者を置くなどです。
パウロは、説教を聞いたテサロニケの教会員たちに、「それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と述べています。
説教は、その職務に任ぜられた牧師をはじめ教師、宣教師によってなされます。その説教された言葉こそ、まさしく、神の言葉であり、霊的な成長になくてはならない乳そのものなのです。
問題は、説教者が語る神の言葉を、人間の言葉とし受け止めるのか、神の言葉として受け止めるのかにあります。説教者が説き明かす神の言葉が、聖書の真理に一致し、それに反しない限り、神の言葉としえて受け止め、受け入れ、それに服従する信徒の信仰は成長します。
それに対し、説教で語られる神の言葉を、人間の言葉として受け止め、神の言葉の権威を侮る信徒の信仰は健全に成長することはありません。説教者の品定めをして説教を聞くのではなく、神の言葉が神の言葉であるゆえに、それを神の言葉として聞き、受け入れ、服従する聞き方が、信仰の健全な成長を促進します。
神の言葉の説教を聞くあなたの聞き方の上に祝福をお祈りいたします。
『第88回 成長する信仰 〈9〉』
「成長する信仰」の第9回目です。神のみ言葉は、新約聖書テモテへの手紙2 第3章16節です。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行なうことができるように、十分に整えられるのです。」
前回は、信仰が成長するためには、説教において語られる神の言葉が、聖書の真理に一致し、それに反しない限り、それを神の言葉として聞き、受け入れることの大切さについてお話しいたしました。
このことは、神の言葉を説き明かす側の牧師と、それを聞く側の信徒の双方が、聖書に対してどのような理解と態度をもっているかに深く関わります。聖書は、この世にある何千何万何億という書物とは全く違う性質をもっています。それは、「すべて神の霊の導きの下に書かれ」ているという点です。
それゆえに、神の救いのみ心が誤りなく聖書を通して啓示されているのです。聖書という書物を通してのみ、私たちは、神の存在も、永遠の選びも、私たち自身が生まれながらの罪人であることも、キリストの十字架による救いの愛も、与えられる恵みとしての信仰義認の祝福や心の罪がきよめられる聖化の祝福も、さらに、終末におけるキリストの再臨と救いの完成も、いっさいを教えられるのです。
この神の側からの啓示として与えられた聖書は、神の権威を帯びています。その聖書の権威と聖書が誤りなく神のみ心を啓示しているということを認め、受け入れ、確信できるのは、み言葉により、み言葉と共に働き、私たちの心の中で証言してくださる聖霊の内なるお働きによります。
この聖霊のお働きに信頼し、身を低くして聖書を読み、説教を聞く信徒は必ず豊かな信仰の成長を与えられます。「どのような善い業をも行なうことができるように、十分に整えられるのです。」
『第89回 成長する信仰 〈10〉』
「成長する信仰」の第10回目です。神のみ言葉は、新約聖書ヘブライ人への手紙 第4章2節です。
「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったからです。」
前回は、聖書は神の権威をもつ書物であり、身を低くして、すなわち、神を畏れ、謙遜をもって聖書に接しなくてはならないということにふれました。今日は、信仰が成長するためには、その神のみ言葉の説教をどのように聞くかに、注目いたしましょう。
ヘブライ人への手紙の記者は、福音の説教を聞いた人々に、それが役に立たなかったといっています。役に立たなかったとは、信仰の成長のためには少しも益しなかったということです。
というのは、語られた福音の真理が「信仰によって結びつかなかったから」です。神のみ言葉の説教を聞く側に求められる応答は、聞いた福音の真理を、心の内で信仰によって結びつけることです。
まこのとの信仰は、神のみ言葉と、聖霊の力によって授けられる人間性全体をあげての神への信頼です。すなわち、換言しますと心で信じる信仰です。その信仰は、福音の真理を受け止める手でもあります。
説教を通して語られた福音の真理を、信仰という手で受け止めて、その福音の真理を心に宿し蓄えるのです。そうすることによって、ますます信仰は内容が豊かになり、神のみ言葉を理解する理解も、神に信頼する信頼も深まります。
それを、連続的に繰り返すことによって、すなわち、日常化することによって、信仰は成長していくのです。聞いた福音の真理を信仰によって、常に結びつけましょう。
『第90回 成長する信仰 〈11〉』
「成長する信仰」の第11回目です。神のみ言葉は、新約聖書ヨハネによる福音書第5章39、40節です。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようともしない。」
前回は、神のみ言葉を聞いて、それを信仰によって結びつける必要のあることをお話しいたしました。これまでは、恩恵の手段としての説教を聞くという点に的をしぼって信仰の成長について考えてきました。
今回は、信仰の成長について必要なもう一つの点、すなわち、自分で聖書を読むということについて考えましょう。最初、多くの人は新約聖書を手にします。開きますと、そこにはイエス・キリストの系図が長々と書いてあります。長々といっても、1ページに満たないものですから、そう長いわけではありません。
しかし、私たち日本人は、カタカナで書かれたこのような系図を読むことになれていません。ですから、難しいと感じてしまうのです。この系図がどんなに大切なものであるかは、聖書を読み進んでいって、少しずつ意味がつかめるようになりますと、自然に分かってきます。
ですから、新約聖書の最初の1ページにつまずかないようにしていただきたいのです。もし、そこが自分になじみにくいと思ったら系図は飛ばして、そのあとの「イエス・キリストの誕生」とある1章18節から読んでください。そうすれば、ずっと読みやすくなることでしょう。
このように、聖書を読むためには、ちょっとした知恵をつかうことが必要なのです。それが、聖書を面白く読むことのできるコツなのです。系図が無味乾燥に思えるから読むのは止めにするというのではなくて、それを乗り越える知恵を用いて、全体を読んでくださいますように。
『第91回 成長する信仰 〈12〉』
「成長する信仰」の第12回目です。神のみ言葉は、旧約聖書詩編第119篇105節です。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」。
私ども改革派教会の大会という会議が浜松のカリアックという研修所であったために、前回は2週間にわたったて入れかえなしでお聞きいただきました。
前回は、聖書を読むためには、自分なりの工夫が必要であることに触れました。今回もその続きとなります。聖書を読むときに<通読>という方法があります。通読とは、旧約聖書創世記1章1節から新約聖書ヨハネの黙示録22章21節までを、最初から終わりまで読み通すことです。
通読と聞いたただけで、これは大変なことだと尻ごみしてしまう方もあるかもしれません。しかし、まず、気持ちを楽にすることが肝心です。聖書を通読すると固く構えないで、聖書とお付き合いするくらいの気持ちで、無理なくスタートするのです。例えば、創世記を前にして、創世記という本の文字と対決するというよりは、創世記さんという人と出会うという期待です。
人の顔が人それぞれですし、性格も同じように人それぞれです。ですから、創世記さんという新しい人と出会うことによって、創世記さんの顔と性格と心を知っていくのです。そうするならば、創世記さんがもつ不思議や秘密が次第に明るみに出てきます。文字と対決する苦しさというのではなくて、人と出会う出会いの楽しさをかみしめていくのです。
こうして、いつも間にか創世記を読み終えているということになります。第1回目の出会いの感動と祝福は自分のものとなります。次の出エジプト記では、出エジプト記さんとの出会いが待っています。新しい人と出会うということは、本当に楽しいことですね。
聖書は、1回読めば終わりではなくて、第2回目、第3回目と通読します。それぞれに、また、新しい出会いが待ち受けています。旧約聖書は39巻、新約聖書は27巻、合計で66巻です。ですから、66人のフレッシュマンと出会うのが聖書通読です。今日から出会いの歩みを始められてはいかがでしょうか。
『第92回 成長する信仰 〈13〉』
「成長する信仰」の第13回目です。神のみ言葉は、新約聖書ルカによる福音書1章3節です。
「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」。
今回も、聖書を通読のための工夫にについて考えましょう。
聖書を通読するための助けとなるのは、通読表、あるいは、聖書日課を用いることです。それには、1日に読む聖書の箇所が定めてあります。私は、教会のカレンダーの中にこの聖書通読日課表を書き入れています。
今日は、11月1日ですから、その表によりますと旧約聖書はエレミヤ書24、25、26の3章で、新約聖書はテトス書の2章となっています。このような通読表は、聖書協会やキリスト教書店で売っていますので、求めてお用いください。
その通読表に、自分が読んだところは赤エンピツで丸をつけるとか、黄色いサインペンで塗りつぶしていくのも一つの方法です。市販の通読表が見つからなかったときには、自分でこの表をつくることもできます。その場合でも、読んだ所は塗りつぶしていくと、どこまで読んだかがはっきりして励みになります。
また、もう一つお勧めしたいのは、自分なりの「しおり」を作ることです。そのしおりには「聖書通読用」と大きく書いておくのです。こうすれば、毎日どこまで進んだかがはっきりわかります。少なくとも、旧約聖書のしおりと新約聖書のしおりの二つを作り、これを聖書に挟んでおいて、読んだページの分を進ませるのです。
聖書を通読するためには、このような自分なりの小さな工夫が大切です。無理をしないで根気よく続けるのがコツです。どうぞ、聖書通読に挑戦してくださいますように。
ルカは、良く調べて書いたのですから、読むほうでもそれを無にしないで、コツコツ読んでいこうではありませんか。
『第93回 成長する信仰 〈14〉』
「成長する信仰」の第14回目です。神のみ言葉は、新約聖書使徒言行録17章11節です。
「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人たちよりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」。
聖書通読のための実際的な工夫にについて考えてきましたが、今回でそのことについては一区切りといたします。
聖書を読んでいくときに、書かれていることのまとめをしていくことが大切です。新共同訳聖書には、大まかなまとめが記されています。たとえば、旧約聖書創世記では、第1章、第2章天地の創造、第3章蛇の誘惑、第4章カインとアベル、第5章アダムの系図と、それぞれ表題がついています。
新約聖書のマタイにによる福音書を例にとりますと、第1章1節から17節イエス・キリストの系図、18節から25節イエス・キリストの誕生、第2章1節から12節占星術の学者たちが訪れる、13節から15節エジプトに避難する。16節から18節ヘロデ、子供を皆殺しにする。19節から23節エジプトから帰国する。第3章1節から12節洗礼者ヨハネ、教えを宣べる。13節から17節イエス、洗礼を受ける、と表題がついています。このように、区切りごとの表題を覚えておきますと、聖書の内容がまとまって心にとどまるようになります。
この表題を、自分なりにつけていくのも一つの方法です。
さて、聖書を毎日1章ずつ読むと決めても、忙しかったり、その他の事情でそれが出来なくなる場合があります。その時、決めたことが出来ないからといって、決して罪を犯していると考えてはなりません。自分で決めたことは、神の律法ではありません。それが実行できなくなっても罪を犯すことではありません。
決めたとうりにできないから、自分はだめな人間、信仰が弱い人間であると考えて、求道や信仰生活から離れてはなりません。必要であれば、何度も軌道修正して、新しい自分に合ったルールをつくれば良いのです。
どうぞ、神の御言葉である聖書を読み続けてくださいますように。
『第94回 成長する信仰 〈15〉』
今回のテーマは、「死ぬことが益となる人生」です。神のみ言葉は、新約聖書フィリピの信徒への手紙第1章21節です。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。
人生は、何のためにあるのでしょうか。私も70歳を過ぎて思うことはその短かさであり、何と早く過ぎてしまうのかという実感です。詩編90篇10節でモーセはこう歌っています。
「人生の年月は七十年程のものです。/健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いに過ぎません。/瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」
この最後の「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」という一句に、しみじみとした共感を覚えます。それにしても、この飛び去る人生は何のためにあるのでしょうか。
モーセは90篇12節で、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。/知恵ある心を得ることができますように。」と祈り願っています。人生の意味を正しく知ることが出来るようにというのです。その人生の意味をことごとく知っておられ、最善に導かれるのが、神ご自身です。
使徒パウロは、キリストによって救いに入れられ、信仰によって使徒としての使命をまっとうしました。パウロは晩年になり、ローマの獄中からこの手紙を書きましたが、その中で「死ぬことが利益なのです」と言っています。人生はもともと、創造において、死を味わわないように生きることを意図して造られたのです。ところが、最初の人の
罪によって、その刑罰としての死を避けることができないようになってしまいました。
そのような状況の中で、救い主イエス・キリストを信じるとき、死にゆく人生は、死ぬことが益になる人生に変えられるのです。日々に、神の栄光を現わす使命に生き、死後も、その魂は直ちに完全にきよくされ、キリストと共に住む光栄を与えられます。
キリストにあって、死が益となる人生を生きるために、この今のかけがえのない命と人生が授けられているのです。感謝して日々に神を賛美いたしましょう。
『 第95回 高齢を生き抜く 』
今回のテーマは、「高齢を生き抜く」です。神のみ言葉は、新約聖書フィリピの信徒への手紙第3章14節です。
「神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
高齢に達して必要なものはいろいろあります。その一つは健康です。また、健康を支えるための医療や介護の充実が上げられます。
聖路加国際病院の院長である日野原重明先生が「生きることの質」という著作の中で次のように述べておられます。「老人が、いつも清潔で、心身ともに快適に暮らせるためには、部屋にトイレをつくることが先決問題です。それさえあれば、家の狭さはがまんできます。
老人症候群は三つあります。一つは、ふらふらして倒れて骨折を起こすことです。それでなくとも老人は骨粗鬢症で、骨がスカスカになっていますから、骨折を起こしやすいわけです。二つ目が失禁、三つめは老人生痴呆症です。老人症候群にならないためには、頭とからだを使い続けること、しかも、いつも安全なところで使うことが大事です。さらに大事なことは、人間的な愛情にふれることです。」
使徒パウロは、晩年になっても、頭を使い続けることを止めませんでした。それは、救い主イエス・キリストに捕えられ、キリストに固く結ばれていたからです。
しかし、たとえどんなに老後を快適に過ごす環境が整ったとしても、待ち受けるものがあります。それは死です。死に勝利する確実な保証があるところに真の希望があります。パウロは人生を走り貫き、その最後に待ち受けるものが、神が授けてくださる賞与、すなわちご褒美であることを確信していました。
それは、死と同時に与えられる魂の完全なきよめであり、終わりに待ち受ける肉体の復活であり、最後の審判においての公平、正当な判決です。再臨の主が授けてくださるご褒美です。死への完全な勝利です。
高齢を生き抜く秘訣は、この完全な勝利を目指して前向きにひたすら走ることにあります。後ろのものを忘れ、前のものに向かって、体を伸ばして走りましょう。
『 第96回 救い主イエス・キリストの降誕 』
今回のテーマは、「救い主イエス・キリストの降誕」です。神のみ言葉は、新約聖書マタイによる福音書第1章20、21節です。
「このように考えていると、主の天使が夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」。
今年も12月を目前にしています。週の半ばには20世紀最後の月に入ります。例年のようにデパートをはじめ商店街では、クリスマス商戦たけなわとなっています。
先日、日本で一番昇降客が多いといわれている新宿駅を通ってみました。本当に多くの人で今さらながら驚きを新たにしました。それは、これらのすべての人が例外なく死に向かって歩いているからです。そして、この内の何人が死を意識しながら歩いているでしょうか。
先ほどお読みしました神の御言葉は、天使が、いいなづけの妻となっていたマリアの夫ヨセフに、夢の中で現われて語り告げた言葉です。その中でマリアが懐妊し、やがて生まれる男の子を「イエス」と名づけるようにと語り告げています。そのイエスとは、罪から救う者、救い主と言う意味なのです。
罪から救うとは、罪の結果である死と滅びの中から救うということです。もし、死に向かう人生に救いがないなら、何の希望があるでしょうか。空の空、一切が空で、虚無の闇が待ち受けるだけです。
この虚無の闇、死と滅びの闇の中から、罪ゆえに死ぬべき私たち人間を救い出すために、キリストはマリアの胎に宿ってこの世にお生まれになったのです。そして、長じて罪ある人間の身代わりとなって十字架の刑罰を神から受け、罪の贖いを成し遂げ、救いを獲得してくださいました。
その救いが、キリストを救い主と信じる人に無償で与えられます。この救いを自分のものとすることによって、死に勝利し、虚無と滅びに勝利し、人生を勝利において全うすることができるのです。この救いのゆえに、人生の困難の中でも希望を持って耐え忍ぶことができるのです。
『 第97回 授けられるダビデの王座 』
今回のテーマは、「授けられるダビデの王座」です。神のみ言葉は、新約聖書ルカによる福音書第1章31節から33節です。
「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
これは、天使ガブリエルが、マリアに現われて語り告げたことばの中の一節です。この天使のみ告げのように、やがてマリアはベツレヘムで男の子を産み、イエスという名前を付けます。すなわち、父なる神のみもとから地上に遣わされたキリストが、マリアの胎内で人間性をとり、真の神・真の人としてお生まれになったのです。
それは、かつて、ダビデ王に神が約束された永遠の王座を嗣ぐ、王としての誕生だったのです。この約束は、預言者ナタンの口を通してダビデ王に語り告げられました。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」(サムエル記上第7章12節)
ダビデの死後、その王座を継いだのは息子ソロモンでした。ソロモンは、若い時には、父ダビデの信仰にならい神を喜ばせる王として君臨しました。ところが、長じて、栄華をきわめたソロモンは、神を侮り、特に偶像礼拝の罪を犯し、主なる神によって裁かれました。そして、統一王国は終わりを告げ、その次の代には、南王国ユダと北王国イスラエルに分裂しました。
ダビデの子孫としてのソロモンは、あの揺るぎない永遠の王座を継ぐことができませんでした。それでは、だれがその王座を継いだのでしょうか。この世に生まれた救い主イエス・キリストが、その方です。「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」と天使が告げたとおりです。
救い主イエス・キリストは、神の国の永遠の王として君臨し、預言者、祭司、王として救いのお働きをなすために、この世にこられたのです。それを、お祝いするのがクリスマスです。
『 第98回 言は肉体となった 』
今回のテーマは、「言は肉体となった」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第1章14節です。
「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
ヨハネは福音書の冒頭で、マタイやルカによる福音書のように、救い主イエス・キリストの誕生の出来事を書いてはいません。しかし、違った角度から、ヨハネ自身の書き方でこう書いていいます。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(1章1節、2節)。ヨハネが文書によって活躍したのは、紀元90年代のことで、1世紀の最後の10年間です。キリスト教会が世に出来てから、すでに約60年が経過していました。
その間に、福音は、当時の世界に宣べ伝えられ、教会も広く世界の各地に起こされるようになりました。その教会は、常に、この世の思想や哲学と出会い、その影響を受け、信仰の戦いを迫られました。たとえば、ヨハネの手紙1の中では、キリストが肉体を取ってこのよにお生まれになったことを否定する異端者たちが、教会員を惑わしていることが記されています。
特に、人々は最高の英知を求めて、探究し続けました。英知をギリシャ語ではロゴスとという語で現わしました。ヨハネは、その同じロゴスという用語を用いて、人々が知り、信じなくてはならない最高の英知を伝えたのです。
それは、哲学の理念や抽象的な概念としてのロゴスではなくて、父なるかみからこの世に遣わされておいでになった、生きた人格としてのロゴス、神の永遠のみ子キリストなのです。
「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」のです。神の御子キリストは、肉体を取ってこの世に宿ってくださり、その罪なき肉体を犠牲としてささげて、罪の贖いを完成し、信じる者に罪の赦しと永遠の命をさずけてくださるのです。
生ける人格としてのキリストの到来、これがクリスマスで祝うキリストなのです。
『 第99回 天に宝を積む 』
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
今回のテーマは、「天に宝を積む」です。神の御言葉は新約聖書マタイによる福音書第19章21節です。
「イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
これは、富める青年と救い主イエス・キリストの対話に出てくる一節で、青年に対してキリストがお語りになったみ言葉です。
創造者である神は、その永遠の御計画と摂理による御支配の中で、季節の区切り、年の区切りを与えておられます。年の暮れには越し方を振り返り、新年には来るべき行く手に思いを馳せることが出来るように導かれます。新しい年、21世紀の初めに際し、皆さんと共に分かちか合いたい御言葉は、「天に宝を積む」です。
これは、永遠の命を求めてキリストのもとに来た青年が、愛の律法を完全に守り行なっていると自負していることに対して、主イエスが、「完全になりたいなら、持ち物を売り払って、貧しい人に施しなさい」とお語りになったあとで、「そうすれば、天に宝を積むことになる」と教えられた御言葉の中にでてきます。
まず、人間的な基準で自分の完全さを主張した青年は、その間違いを知るべきでした。次に、自分が愛の律法を行なうことに関しては、「完全」の域にはとうてい到達することの出来ない罪深い人間であることを認めるべきでした。そして、自己依存の一切を投げ捨てて、救い主イエス・キリストの御言葉に服従すべきでした。
これこそが天に宝を積む唯一の道でした。彼は、この世の宝に執着し、その執着心という心を捨てることができず、永遠の命を失ったのです。
昨年、鈴木その子さんが亡くなりました。彼女は、親から譲り受けた財産を用いて、自分の賜物と富を生かして、巨額の財産をつくり、銀座四丁目の角近くにビルを持ち、化粧品やダイエット食品を販売し、テレビでもその行動力、実行力を宣伝していました。
ところが、自分自身でもこれからと期待し、自分の名前を付けた会社の社長とり、さらに業績を上げようと準備していたのですが、あっという間に人生の幕切れを迎えました。彼女は巨万の富を手にしても、永遠の命を得ることなく世を去ったのです。
この新しい年、あなたに、神が望んでおられることは、「天に宝を積むことです」。これこそ人生に勝利する道なのです。
『 第100回 内なる力 』
今回のテーマは、「内なる力」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第7章38節です。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
救い主イエス・キリストは、仮庵の祭の最後の日、祭りが最も盛大に祝われる日に、神殿の境内で、このことをお語りになりました。
ここには、救い主イエスきりをを真の信仰によって信じる人々に与えられる祝福が具体的に教えられています。
第一は、聖書に書いてあるとおりそのことが実現するということです。聖書はもちろん旧約聖書です。といっても、どこか一箇所からの引用というわけではありません。例えば、イザヤ書第44章3節にはこうあります。「わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。わたしの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。」
第二は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる、ということです。人の内からというのですから、キリストを信じた人の心の中からということです。その人の心の内に生きた水があって、それが川となって流れる出るというのですから、これは、とても不思議なことです。
それでは、その生きた水とはなんでしょうか。次の7章39節の前半で、その意味がこう教えられています。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている「霊」について言われたのである。」すなわち、生きた水とは、神の御霊である聖霊のことなのです。
魂に飢え乾きを覚えて、救いを求めている人はだれでも、救い主イエス・キリストを信じるとき、この生きた水である聖霊を授けられます。それが、生きた水を飲む、イコール信じて聖霊を授けられることです。
あなたがキリストを救い主と信じるなら、また、すでに信じているなら、あなたにこの生きた命の水である聖霊が豊かにあたえられています。それだけではなくて、あたの心からこの水の力が外に向かって現われているのです。
これが、生きる命の力であり、人生に活力と気力と品位を授ける源です。また、救いの福音を宣べ伝え、キリストのからだである教会のために、喜びと希望をもって奉仕する原動力です。
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