
『 第101回 蔓延する罪の実 』
今回のテーマは、「蔓延する罪の実」です。神の御言葉は新約聖書ローマの信徒への手紙第1章32節です。
「彼らは、このようなことを行なう者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけでなはなく、他人の同じ行為をも是認しています。」
このところ、ニュースの報道は、政治家や官僚の腐敗ぶりを連日伝えています。自民党の額賀志郎経済財政担当相が、自分の秘書が、財団法人「ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団」(KSD)から1500万円の資金提供を受けていた問題の責任をとって辞任しました。
また、外務省の元要人外国訪問支援室長が、外交秘密費を流用して自分のマンションを手に入れたり、競争馬を数頭買い入れて所有したりしていてることが大きな問題になっています。
これは、一口に言えば政治家の政治倫理の欠如ということになります。でも、倫理感覚がそのように欠けている原因はどこにあるのでしょうか。あるいはまた、どこから来るのでしょうか。
パウロは、ローマの信徒への手紙1章18節以下で、人間の罪に対して神の正義の審判が下っていることを説き明かしています。そのところで、人間の心がいかに深く罪に捕えられているかを語った最後のところで、先きほどの32節の言葉を記しています。
罪を犯す人間が、その心の深いところでは、罪に対して神の審判がくだるということを知りながら、自分が罪を犯すだけではなくて、他人の罪の行ないをも「是認」しているというのです。すなわち、他人の罪を正しいことであると判断しているというのです。
これは、善と悪の価値判断の逆転です。罪というランナーがどこまでも走り続けるなら、そのゴールは価値判断の逆転です。人間の社会がそのような人で満ちるなら、この世は住むに耐えないものになってしまいます。それは、一面では、罪に対する神の審判の結果であり、他面では、神を畏れる感覚の欠如からくる結果でもあります。
必要なことは、問題が政治的に正しく解決されることであり、さらに、真の生ける唯一の神を知り、神を畏れる感覚を内に宿し、神を信じてい生きることです。そのために救い主イエス・キリストが神の右の座に着いておられるのです。
すでに救いを与えられているキリスト者は、為政者のために祈らなくてはなりません。
『 第102回 夜空の星を見よ 』
今回のテーマは、「夜空の星を見よ」です。神の御言葉は旧約聖書創世記第15章5節です。
「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星をかぞえることができるなら、数えて見るがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」
先日は、関東地方も大雪に見舞われました。といっても、所沢で17センチほどでしたから、大雪というほどのものではありません。私は、雪国山形の育ちですので、冬の雪にはさまざまな想い出があります。屋根の雪降ろしと、降ろした雪をかたずける苦労をはじめ、雪国でなくては味わえないことがたくさんありました。
子供のころ、お風呂に行った帰りに、足駄の下で雪が、コキ、コキとなったことを今でも鮮明に覚えています。昔は靴がありませんでしたので、下駄をはいていました。雪が降ると、歯の高い足駄をはいたのです。今では、すっかり消えてしまった冬の風物詩の一つですね。
そのような夜に、夜空を見上げると、夜空が近くに迫ってくるようで、ふと足を止めて、満天に輝く無数の星に見とれました。
旧約聖書の時代に、神はアブラハムという一人の人物を選び、ご自身に従うように召し、信仰を訓練して鍛えられました。アブラハムは、自分には子供が与えられていないのに、神は、アブラハムから生まれる子孫が跡継ぎになるとおっしゃたのです。これには、納得ができませんでした。
そのとき、神は、アブラハムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」と、おっしゃたのです。そして、「あなたの子孫はこのようになる。」と約束されました。
これは、夜空に輝く星を見せ、自然をとおしてなされた信仰の訓練でした。その約束が後に実現して、救い主イエス・キリストが、2000年後にユダヤのベツレヘムにお生まれになったのです。
冬の夜空を仰ぎ、星を見つめながら、神の偉大な救いの働きに思いを馳せられてはいかがでしょうか。これまでに見えなかったものが、夜空のかなたに見え、心に神の約束とそれを実現なさる神の確かな力がよみがえってくるにちがいありません。
『 第103回 信頼できる力 』
今回のテーマは、「信頼できる力」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第2章25節です。「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからです。イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」
先週、日本航空の2機の旅客機がニアミスを犯し、再接近したときの相互の間隔は10メ-トル程だったと報ぜられました。もし、接触し墜落していたら大惨事となっていました。ほんとうに肌寒くなるニュースでした。けがをなさった皆さんの回復をお祈りいたします。
しかし、なぜあのようなニアミスが起こってしまったのでしょうか。原因が調査中で最終的な結論は出ていませんが、航空管制を担当している管制官が、2機の飛行機の管制番号を読み違えた、うっかりミスによるものではないかと言われています。
教習性と側にいた指導を担当している管制官が共にそのミスに気づかなかったというのです。このことを聞いて、私は、人間の能力の限界を強く印象づけられました。人間の能力、体力、気力など、あらゆるものに限界があるのです。それは、人間自身が限界のある存在なのだということの証明でもあります。
すなわち、人間は良いものをどんなに多くもっていても、そこには、永遠性とかとか無限性とか不変性はないのです。すなわち、絶対性はないのです。ということは、絶対的に信頼のできる人間は一人もいないということです。
さて、救い主イエス・キリストはどうでしょうか。キリストのなさった奇蹟の業を見て多くのものが信じました。ところが、それは、一過性の口先だけの信仰に過ぎませんでした。それを見抜いておられたキリストは、これらの人を弟子とはなさいませんでした。
キリストは、神の永遠の御子であり、神ご自身であり、父なる神からこの世に遣わされた救い主です。この地上では、真の神・真の人として、一つの人格に神と人の二つの性質をもって救いのお働きをなさいました。
その神であるキリストは、人間性においても、普通の人々とは違って、人の心の内を見抜き、本物と偽物をはっきり区別なさったのです。イエス・キリストには、うっかりミスはありません。キリストの知恵は、永遠であり、無限であり、不変なのです。
この世で、全身全霊をあげて信頼できる方は、救い主イエス・キリストただお一人です。イエス・キリストを救い主と信じるなら、裏切られることはありません。一度限りの人生に失望はありません。その救いは、永遠です。
『 第104回 赦される罪 』
今回のテーマは、「赦される罪」です。神の御言葉は新約聖書コリント信徒への手紙1第6章11節です。「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」
人間は皆、神の前に生まれながらの罪人で、罪を犯さない人間は一人もおりません。キリストを信じ、救われてからも、罪を犯します。そのために、悔い改めが求められます。
使徒パウロは、コリント教会に宛た手紙の中で、「あなたがたの中にはそのような者もいました。」と、述べています。そのような者とは、どのような者でしょうか。それが、9節の後半から10節の前半に書かれています。「みだらな者、偶像を崇拝する者、姦通をする者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者、」などです。そして、これらの者は、「決して神の国を受け継ぐことができません。」と厳しく述べられています。
それに続いて、「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」とあるのです。
数え上げられた罪の中には、みだらな者、姦通をする者、男娼、男色をする者など、性的な乱れ、不倫に関する罪があります。これから信仰に入ろうとするとき、かつて、自分が犯した性的なさまざまな罪のゆえに、あんなことをしてしまったのだから、自分は救われないと尻込みする方があるのではないでしょうか。
たとえ、どのような種類の罪を犯していたとしても、主イエス・キリストを救い主と信じるなら、その罪は赦され、聖霊の力で新しい命を与えられます。神の御言葉と聖霊は、心の内にある罪を示し、それを悔い改める力を授けてくださいます。また、心の汚れを洗い除く恵みによって生かし導いてくださいます。
かつては、あるいは、今もそのような者であるとしても、今ここで真実の悔い改めがなされるなら、その罪は神の前でゆるされ、義人と認められて、豊かな救いのいつくしみが授けられます。あなたの罪は必ずゆるされます。
悔い改めて、新しい一日を歩みましょう。
『 第105回 義の栄冠を受ける 』
今回のテーマは、「義の栄冠をうける」です。神の御言葉は新約聖書テモテへの手紙2第4章7節-8節です。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」
このフクインダイアルを聞いていてくださる皆様の中で、鈴蘭台教会の牧師であった入船尊先生をご存じの方も多いのではないでしょうか。実は、入船先生は、18日、主の日の朝、午前5時に天に召されました。先生の66歳の生涯が閉じられました。
昨日、20日の午後1時から、神戸にある板宿教会で葬儀が営まれました。その葬儀に参列して、入船先生との40年に及ぶ交わりの中からさまざまなことを想起いたしました。
私が神戸改革派神学校の最上級である3年になったとき、入船先生が1年に入学して来られました。神学校では、主の日の礼拝の奉仕のために、神学生を神戸地区の諸教会に派遣していました。私のその年の前期の派遣教会は葬儀が営まれた板宿教会でした。
1年生の入船先生は、その年1年間は板宿教会に派遣されましたので、主の日の朝になると、神学校の下にあった石屋川のバス停から二人でバスに乗り、三ノ宮を通り、神戸の市内を横切って板宿まで行きました。それ以来、入船先生との交わりが始まり、後に入船先生がインドネシアに宣教師として行かれましたときにも、その後も交わりを続けさせていただきました。
想い出はすべて楽しいことばかりです。それは、復活を固く信じて、生涯を全うされた入船先生の信仰の力によるものだと思います。棺の中の寝顔は、この世のすべての労をとかれたお姿そのものでした。
と同時に、正しい審判者である主が、かの日に授けてくださる義の栄冠が待ち受けていることを、鮮やかに映し出したお顔でもありました。残された者として、再臨の主を同じ信仰でひたすら力強く待ち望みたいと願っています。
『 第106回 神に打ち明けなさい 』
今回のテーマは、「神に打ち明けなさい」です。神の御言葉は新約聖書フィリピの信徒への手紙第4章6節-7節です。
「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神にうちあけなさい。」
人生を歩む中で大きな困難に直面し、将来はどうなるのかという闇に閉ざされて、思い煩ってしまう場合があります。何の困難もなく、普通に生活できているときには、思い煩いは起こりません。経済的に安定しているときにも、経済的な困窮からくる思い煩いになやまされることはありません。
しかし、どうでしょうか。たとえ、困難がなく、経済的に安定していても、事柄が自分の思ったとおりに進まない場合には、思い煩いが起こってまいります。そうすると、人間の心は不安に捕えられます。
そのときに、神のみ言葉は、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神にうちあけなさい。」と勧めるのです。
ただじっと忍耐して思い煩いと戦い、思い煩いをやめようと努力することが、信仰生活ではありません。そんなことをすれば、心はさらに多くの疲れを宿し、ますます思い煩いの波は激しくなることでしょう。
解決の道は、「神に打ち明ける」ということです。思い煩いのいっさいを神に委ねるのです。人間が聞き取ることのできない心の悩みのひだの奥までも、神は聞き取ることがおできになります。聞き取るだけでなく、それに対して解決の最上の道筋を開いてくださいます。解決への糸口を教えてくださるのです。
「ですから、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」るのです。神に打ち明けるのです。どんなにつらくても、悲しくても、あなたの心を聞いてそれを受け止め、それに答を与えられるのが神ご自身です。あなたは、ひとりぼっちではありません。もう、ひとりぼっちとなって悩む必要はないのです。心の重荷を主におろし希望を持って進もうではありませんか。
『 第107回 人知を越える神の平和 』
今回のテーマは、「人知を越える神の平和」です。神の御言葉は新約聖書フィリピの信徒への手紙第4章7節です。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
「そうすれば、」とは、思い煩いを捨て、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けるなら、ということです。すなわち、人生のあらゆる状況の中で神に心から信頼して祈るなら、ということです。
人生の中では、とつぜん思いもかけない出来事に遭遇する場合があります。使徒パウロとシラスはフィリピで伝道していたある日、とつぜん、官憲の手によって刑務所に入れられてしまいました。その日の真夜中の時刻にも、二人は讃美を歌い、神をあがめることができました。(使徒言行録16章16節〜34節)
それは、あらゆる人知を越える神の平和が、二人の心に授けられ、二人の心と考えが教会のかしらキリスト・イエスによって支配され、守られていたからです。
この平和は、キリストの罪の贖いによって得られ、信じる者に授けられるものです。キリストは、サタンと罪に勝利して平和を得られました。ですから、心配のないたんなる安心ということとこの平和はちがいます。まず最初に、キリストが罪のない命を犠牲として神との間で打ち立てられた平和です。
次に、信仰によって信じる者の心に授けられ、植え付けられた平和です。ローマの信徒への手紙5章1節はこう述べています。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いる。
救い主イエス・キリストは、信じる者の心と考えをこの平和によって守ってくださるのです。どんななときにも、どんな状況でも、人知を越えた神の平和が心にとどまることはすばらしことです。
その平和が、次の信仰の戦いと成長へのエネルギーを生み出す土台となるのです。真の信仰によって信じて救われるすべての者に、この平和がとどまり、決して離れることはありません。
『 第108回 唯一のいけにえ 』
今回のテーマは、「唯一のいけにえ」です。神の御言葉は新約聖書ヘブライ人への手紙第10章12節、13節です。
「しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。」
救い主イエス・キリストは、ご自分の罪のない体を十字架上で犠牲として献げられました。それによって、罪の贖いが成就いたしました。キリストは、自ら弟子たちに「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書15章13節)と教えておられます。そのように、自らの命を捨てること、すなわち十字架上で罪の贖いを成就されることによって、救いの愛を示されました。
この「いけにえ」すなわち犠牲は、唯一であり、他の何ものもそれに取って代わることができません。その意味で、救いはキリストのものなのです。私たち生まれながらの罪ある人間がキリストを救い主と信じて授けられるものは、キリストが十字架上で獲得された救い、キリストのものとなっている救いなのです。それ以外に、罪とその結果と力から人間を救うことのできる救いは、この地上のどこにもありません。
使徒パウロは、「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)と告白しています。
キリストの唯一の犠牲は、「私を愛し」、「私のために」身を献げられた歴史の事実なのです。その身を献げられた神の御子キリストを、救い主と信じるすべての者が救われるのです。
キリストの唯一の犠牲が、私のためであったと悟り、信じるときに、あの唯一の犠牲の祝福が私のものとなるのです。キリストのもの、キリストが持っておられる救いが、私のものとなるのです。
しかも、その救いは唯一であり、永遠です。決して人生の途中でなくなったり、消えてしまうものではありません。この確かな救い、永遠の命を信仰によって、いただこうではありませんか。
『 第109回 真理の霊 』
今回のテーマは、「真理の霊」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第14章17節です。「この方は真理の霊である。世はこの霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである。」
桜のシーズンが迫ってきました。東京でも来週は開花するとの予報です。春は、自然が新しい緑の装いを身につける季節です。私たちの目も外に向かって開き、花々の美しさや新緑の鮮やかさに捕えられます。
このようなときに、目を外に向けると共に、内に転じることの大切さを教えているのが、今回の聖句です。これは、救い主イエス・キリストが十字架に付けられる前に、弟子たちに対して語られた決別の説教の中の御言葉です。
キリストは、父なる神に対して、弟子たちに別の弁護者をつかわし、その弁護者が弟子たちと一緒いてくださることをお願いされます。その弁護者こそ、真理の御霊である聖霊にほかなりません。
キリストが、この地上を去って、父なる神のみもとに上り、弟子たちの前から姿を消されたとき、キリストが遣わされるのが、この弁護者である聖霊です。使徒言行録第2章に、五旬祭の日に、弟子たちに聖霊が注がれたことが記されています。
そのことについて、弟子のペトロは、その日になした説教の中でこう述べました。 「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。」使徒言行録2章33節。
このようにして、あの弁護者、真理の霊である聖霊が、弟子たちの心に宿り、弟子たちを満たしてくださったのです。その聖霊を弟子たちはすでに知っていました。そして、聖霊は弟子たちの心に宿り、それい以後も宿り続けてくださったのです。
それは、今日まで続いている救いの出来事です。キリストを救い主と信じるあなたの心に聖霊は宿り、信仰生活のすべての日に宿り続けてくださいます。これこそ、信じる者に神から一方的に授けられる救いの恵みなのです。春の陽光の中で目をもう一度内に向けようではありませんか。
『 第110回 ゲッセマネの祈り 』
今回のテーマは、「ゲッセマネの祈り」です。神の御言葉は新約聖書ルカによる福音書第22章42節です。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
今年も受難週とイースターが近づいてまいりました。受難週は4月8日の日曜日から14日の土曜日までで、4月15日の日曜日が、キリストの復活をお祝いするイースターです。イースターは、復活祭とも呼ばれます。
エルサレム入場から始まり、十字架で終わる受難週の出来事の中で、私たちの心に深く印象づけられるのは、ゲッセマネの祈りではないでしょうか。
救い主イエス・キリストは、ゲッセマネの園にペトロとゼベダイの子ヤコブとヨハネの3人を伴って、祈りの場に行かれました。マタイは、「そのとき、悲しみもだえ始められた。」と書き、マルコは、「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと」と祈られた、と書いております。
ルカは、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」と言い表しています。私たちはこれらの箇所に、私たちクリスチャンが通常祈る祈りとはまったく違う、緊迫感と荘厳ささえ感じます。
罪のないキリスト、しかも、3年間の公の伝道活動を通して証ししてこられた、サタンと罪との戦いの末にたどり着かれた、最後の決戦の場を迎えて、罪ある人類が受けたくてはならない壮絶な罪の審判を身に受けようとしておられるお姿をここに見ることができます。
そして、同時に、選びの民の救いのために、十字架上でいけにえの死を遂げられる、最後の準備をなさったのです。
この杯、この苦しみを、わたしから取りのけてくださいと、祈られたのは、弱腰にり、苦しみから逃げようとされたからではありません。
「御心のままに行ってください。」と、父なる神の御心に完全に服従して、勝利の一歩を踏み出されるためでした。私たちは、自分自身の罪の重さと深さがどれほどであるかを、ゲッセマネの祈りを通して悟り、十字架と復活の主を、自分自身の救い主、あなた自身の救い主と信じるように招かれているのです。信じてイースターをお祝いしましょう。
『 第111回 主は振り向かれた 』
今回のテーマは、「主は振り向かれた」です。神の御言葉は新約聖書ルカによる福音書第22章61節、62節です。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだえろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして、外に出で、激しく泣いた。」
神の御子、救い主イエス・キリストが十字架に付けられる直前、ペトロは三度も私は知らないといって、主を裏切りました。それは、すでに、そのようになると予告されていたにもかかわらず、ペトロにとっては避けることのできない出来事となりました。
ペトロは、自分が、先生である救い主イエス・キリストを裏切ることなど、ぜったににありえないと信じていました。しかし、ペトロがサタンの誘惑にさらされることを主イエスは見抜いておられました。そして、誘惑に陥った時に、ペトロの信仰がなくならないように祈ったと、力づけられたのです。
その恵みの御言葉を、ペトロは理解することができませんでした。そして、「主よ御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と、見栄をきったのです。
それに対して主イエスは、「あなたは今日鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と釘を刺されたのです。ペトロは自分の肉的な力に溺れ、心は霊的に闇の状態だったのです。しかし、それに気がつかないところに、罪の深さがあります。
ここでも、神のことを思わず、自分のことだけに心を占領されたペトロの姿があります。そしてこれは、まさしく私自身の、また、あなた自身の姿ではないでしょうか。ペトロには、死に至るまで従うという熱心はありました。しかし、それは、十字架という決定的な出来事の直前でも、神の御心を第一にして従うという信仰から出たものではありませんでした。
神の御心に真心から服従する信仰がないなら、どんなに外面上で熱心であっても、それは空しい熱心にすぎません。熱心に従っているから正しい信仰だということはできません。神の御心に服従しているから正しい信仰であると、言うことができるのです。
私たちは、受難週の中で、この真の信仰からの服従を見失わないようにしようではありませんか。ペトロのように過ちに陥る前に、激しく男泣きする前に、この弱い私をそしてあなたを覚えて祈っておられる十字架の主イエス・キリストがおられうことに感謝いたしましょう。
『 第112回 心は燃えていたではないか 』
今回のテーマは、「心は燃えていたではないか」です。神の御言葉は新約聖書ルカによる福音書第24章32節です。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか』と語り合った。」
4月15日が、今年のイースターです。例年、イースターは、春分の後の満月に続く日曜日と定められています。ですから、毎年、日が異なります。
救い主イエス・キリストは、十字架の死後三日目に、死人の中から復活されました。それは、日曜日の朝でした。その日、復活した主イエスは、これまでガリラヤから従って来た女たちや弟子たちに姿を現わされました。
その姿は、死んで葬られる前の人間の姿とは変わっていました。それは、復活した霊の体になっていたからです。ですから、戸を閉めて家でひっそりとしていた弟子たちの前に、戸を開けずに入って来ることがおできになりました。
その日、エルサレムからエマオという村に帰る途中の二人の弟子がいました。一方は、クレオパという名でしたが、彼らが歩いているところに、復活の主が姿を現わしてくださいました。ところが、二人はその方が復活したイエス・キリストであることに気がつきませんでした。
二人は、エルサレムで起こったここ二三日の出来事を、語り合いながら歩いていました。十字架の死後、主の遺体が葬られたこと、その墓から遺体がきえていたこと、女たちや弟子たちが復活について語っていたことなどです。それらのことが、二人には理解できませんでした。
そこに現われた復活の主キリストは、二人と一緒に歩きながら、起こったことの意味について話されました。そして、主の十字架の死と復活について、モーセと預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを、説明されました。
そのすぐ後で、自分たちと話された方が、復活の主イエスであることが分かりました。そのとき、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか」という体験を思い出したのでした。
復活の主イエス・キリストを救い主と信じる者は、神のみ言葉と聖霊の力を与えられ、この心が燃える体験をさせていただけるのです。復活の主は、救いと生きる力と希望と勇気を授けてくださるのです。信じるあなたの心にそれが今とどまっているのです。
『 第113回 無に等しい者を選ばれる神 』
今回のテーマは、「無きに等しい者を選ばれる神」です。神の御言葉は新約聖書コリント信徒への手紙1 第1章27節、28節です。「ところが、神は知恵ある者に恥じをかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥じをかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無きに等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」
この手紙が書かれた当時のコリント教会には、人間の知恵や知識を誇る者がいまいたした。そのような者たちは、独善的となり、自己中心となり、利己的な考えや主張を、他に押し付けました。そこで、教会の中には、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」などというグループができて、分かれ争う状態が起きてしまいました。
自分の人間的な知恵と知識に溺れることは、信仰の正しい道を踏み外す人々が歩む常道です。使徒パウロは、24節で、「ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えていのるのです。」と書いています。
人間の愚かな知恵や知識を越えて、見上げ、信じ、その前にひれ伏さなくてならないのは、神の知恵であるキリストです。いっさいの救いの力は、このキリスト、十字架につかれたキリストにあるのです。それを忘れて、自分のグループの先生を誇り、分かれ争うなどということは、まったく愚かなことです。その愚かさに気づかないところに罪の深さがあります。
パウロは、まず、自分たちが救われたときのことを思い返すように求めています。そうするならば、どのような状態から救われたのかが明かになります。人間的には知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
神は、この世の知恵ある者と力ある者に恥をかかせるため、世の無学な者、無力な者を選び、救いを授けられたのです。また、地位のある者を無力なとするため、世の無きに等しい者、身分の卑しい者、見下げられていた者をあえて選ばれたのです。
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためでした。神の知恵と力であるキリストを見上げ、信じ、頼るとき、神の前での謙遜が、信じる者の心を満たします。たとえ、無きに等しい者であっても恥じることはありません。あえて選ばれる神に望みをおきましょう。
『 第114回 主は心を見る』
今回のテーマは、「主は心を見る」です。神の御言葉は旧約聖書サムエル記上第16章7節です。「しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
この御言葉は、イスラエルの統一王国最初の王サウルが退けられ、次の王を選出するときに、主なる神がサムレルにお語りになったものです。
主なる神は、ベツレヘムのエッサイの息子たちの中から王となるものを選び出すように導かれました。定められたいけにえの会食に、エッサイと息子たちが招かれました。一同が来ますと、サムエルは、エリアブに目を留めました。エリアブこそ油をそそがれる者、すなわち、王になる者だと思ったからです。
主なる神は、その場で、サムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と、おっしゃったのです。
次に、シャンマをはじめそこに集まったエッサイの息子たちは、一人も主の目にかないませんでした。そこで、サムエルは、エッサイに、「あなたの息子はこれだけですか。」と尋ねました。すると、「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています。」と答えました。
サムエルは、末の子を呼び寄せるように求めました。エッサイは彼を呼び戻しました。そこにはこう書かれています。「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』」
この人こそ、統一王国第二代目の王ダビデその人だったのです。
主なる神は、心を見てダビデを王にお選びになりました。心を見るとは、ダビデの心すなわち信仰をごらんになったということです。サムエルもそうでしたが、私たちも、あまりにも人の外面を見て、それに心奪われ、その人の価値を定めてしまうようなところがあるのではないでしょうか。
神の前で、人間にとってもっとも大事なものは、心の内にある信仰なのです。この信仰の価値を見ることができる人が、人を見る目をもっているのです。
『 第115回 見えるところでさばくな』
今回のテーマは、「見えるところでさばくな」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第6章42節です。「こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか。」』」
この言葉は、救い主イエス・キリストが5000人の人に食べ物を与え、ご自分が命のパンであることを教えられた後で、ユダヤ人たちがつぶやいたつぶやきの言葉です。
ユダヤ人たちは、救い主イエス・キリストを自分たちと同じ一人の人間であると考えていました。ですから、彼らによれば、イエスはナザレの大工ヨセフの息子にすぎませんでした。
それなのに、「わたしは天から降ってきたパンである」というような大口をたたくとは、けしからんというわけです。かつて、ユダヤ人の先祖は、出エジプトのとき、天からマナというパンを与えられて、40年間荒野の放浪の旅を続けることができました。
天からのパンは、主なる神が与えられたパンのことです。一介の大工の息子にすぎない者が、自分を神から遣わされた者、神が授けてくださったパンと同一視することは、神を冒涜するいがいのなにものでもありません。
しかし、今、彼らの前におられる救い主イエス・キリストは、先祖が食べたようなパンとは全くちがったパンでした。それは、食べる者、すなわち、信じる者に永遠の命を与えるパンだったのです。
ユダヤ人たちは、救い主イエス・キリストの外面だけしか見ることができませんでした。また、外面以上のものを見ようとはしませんでした。彼らにとって、イエスは、大工ヨセフの息子であり、常に自分を神と主張する罪深い者と映ったのです。
このように神を冒涜する者を生かしておくべきではない、殺すべきであると、彼らは考え続けたのでした。ユダヤ人たちは、救い主イエス・キリストが、父なる神から遣わされた神の御子であり、罪ある人類の救い主であることを見抜くことが出来なかったのです。
彼らは、うわべだけの判断で道を誤ったのでした。私たちもこのような過ちを犯すことがないようにしなくてはなりません。救い主イエス・キリストは、正真正銘の神の御子、神ご自身だったのです。
『 第116回 神を知る道筋 』
今回のテーマは、「神を知る道筋」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第1章18節です。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
神を早く知りたい、はやく分かりたいと考えている方も少なくないと思います。あなたはいかがでしょうか。
私も若い頃、何とかして本当の神を早く知りたいと願った時期がありました。しかし、求道生活を続けるうちに、神を知るには、筋道があることがだんだんと分かってきました。その筋道の一つを教えているのが、今回の聖書の箇所です。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
神を知ることの出発点は、神ご自身のお働きにあるということでです。「神を示された」とあるとおりです。神の側から神を示してくださる、別の表現では、神を現わしてくださる、啓示してくださることによって道は開かれます。
これは、私たち人間の求めとか、信心とか、願いとかが、先にあることによって、神を知ることが出来るのではないということです。まず、最初に、神がご自身を示されることによって、神を知る道が与えられたということです。
しかも、神がご自身を罪ある人間に示された方法は、「父のふところにいる独り子である神」すなわち、キリストを通してです。神を知るためには、神を生き生きと現わしておられるキリストという救い主を知らなくてはならないのです。
キリストは、父なる神のふところにおられた神の独り子です。父なる神を見、父なる神を知り、父なる神と密接な命のまじわりをもっておられた神の御子なのです。父なる神は、その最愛の独り子キリストを、罪ある人類の救い主としてこの世にお遣わしになったのです。
ですから、神を知りたいと願うなら、神から始めなさいと招かれているのです。これが神を知る最上、最短の道筋なのです。救いと永遠の命を知り、得たいなら、神と神の御子キリストを知ることから始めるのです。
次回もこの続きを考えましょう。
『 第117回 神を見る 』
今回のテーマは、「神を見る」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第14章6-7節です。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
人間は、目に見えるものに頼りやすい性質をもっています。見えないものは頼りにならないが、見えるものなら信頼できると考えるからです。
救い主イエス・キリストは、弟子に対して、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。」と、教えておられます。神の永遠の御子であるキリストを知ることは、イコール、キリストの父なる神を知ることだとおっしゃったのです。
神を知る、父なる神を知るためには、キリストを知らなくてはならないのです。なぜなら、神の御子キリストは、神とその御心をこの地上で明らかに現わすために、父なる神から遣わされた唯一の仲保者だからです。
それだけではなく、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と教えておられます。キリストという仲保者を知り、キリストを通して父なる神を知った者は、父なる神を見ているのです。
この地上で30数年の生涯を送られ、最後には十字架につき、救いのお働きを成し遂げられた救い主イエス・キリストを知り、見た者は、父なる神を知り、見た者なのです。
このすぐ後で、キリストは、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(14章9節)と、弟子のフィリポにお語りになりました。神の永遠の御子、真の神・真の人であるキリストを見た者は、キリストという一人の生きた人格を通して現わされた、父なる神を見たのです。
それは、今の私たちにとっても同じです。キリストを知り、キリストの救いを信じた者はみな、キリストにおいて父なる神を見ているのです。キリストを通して父なる神を具体的に見る幸いを与えられているのですから、恐れることなく、心配することなく、キリストを信じて、父なる神を見続けようではありませんか。
『 第118回 おぼろに見る 』
今回のテーマは、「おぼろに見る」です。神の御言葉は新約聖書コリント信徒への手紙1第13章12節です。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
神を知り、神を見、神を信じることは、相互に深く密接な関係にあることを2回にわたってお話しいたしました。
使徒パウロは、コリントの教会の信徒に、「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」と、書いていいます。今、この世では、神を見ることは、鏡に映して見るようにおぼろだというのです。
当時の鏡は、今のきれいに映るガラスの鏡とは違い、金属で出来たもので、それに顔を映してもぼーっとしか映らなかったのです。しばらく前に、ポンペイ展という展覧会で、飾ってあった実物を見て、なるほどと思いました。
信仰によって神を見ることも、神を知ることも、この世ではまだおぼろなのです。おぼろであっても、正しく見、正しく知ることは確かです。なぜなら、神を見、知ることは、神の霊である聖霊の恵みとして、キリストを救い主と信じるすべての信徒の心に与えられているからです。
この手紙の第2章12節で、パウロはこう教えています。「わたしたちは世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」。神からの霊とは、神である霊、すなわち、聖霊のことです。
聖霊は、真の信仰をもって信じるすべての信徒の心に宿り、新しい命を与えてくださいます。その新しい命は永遠の命とも呼ばれます。この命の力が働くことによって、霊的な心の闇は破られ、霊的な目が開かれて、キリストを救い主と信じ、キリストにあって神を信じ、神を見ることができるように変えられるのです。
たとえこの地上で、知ることも、見ることもおぼろであっても、決して落胆する必要はありません。終末の神の国の完成の希望をめざして神を見つづようではありませんか。
『 第119回 見えると言いはる 』
今回のテーマは、「見えると言いはる」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第9章41節です。「イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る。』」
今回も、神を知り、神を見、神を信じることについて取り上げましょう。神を見るためには霊的な目を開かれていなくてはなりません。
イエス・キリストがお働きになっておられた時代のファリサイ人たちは、自分たちの心の目が見えなくなっていることに、全く気がついていませんでした。自分たちは、モーセの弟子で、神の律法を守っていると自負していました。すなわち、自分たちの霊的な目は開いており、はっきりと見ることができると、確信していたのです。
生まれながらの盲人の目を、救い主イエス・キリストは、シロアムの池で開けてくださいました。ファリサイ人たちは、目を開けてもらった男の人に、だれがお前の目を開けてくれたのかと問い詰めました。彼は、答えてこう言いました。
「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」これを聞いたファリサイ人たちは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとしているのか」と言い返し、彼を交わりの外に追放したのでした。
その後、救い主イエス・キリストは、彼に会い、ご自分が人の子、救い主であることを明らかにされました。彼は、「主よ信じます」と信仰を告白しました。
ファリサイ人たちは、イエス・キリストを神の御子であると認めようとはしませんでした。認めないばかりでなく、いつも殺そうとつけねらっていたのです。
霊的な世界が全く見えない目をもちながら、見えると言いはり続けたのです。ここに罪があります。罪によって心の目がくらまされているのに、見えるというのは、不信仰の罪によるものだったのです。
キリストを救い主と信じることによって、心の目は聖霊の力によって開かれ、神の言葉を理解し、神を知り、神を見ることができるように変えられるのです。あなたの心の目が聖霊の力によって開かれ、常に、見えるものでありますようお祈りいたします。
『 第120回 わたしはある 』
今回のテーマは、「わたしはある」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第8章24節です。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことにになる。」
救い主イエス・キリストは、ファリサイ派と呼ばれる当時の宗教的な指導者たちから、何度も質問を受けたり、論争をしかけられたりしました。ここでは、キリストは、ご自分がこの世を去っていくということについて教えられたのですが、これを聞いたユダヤ人たちは、キリストが「自殺でもするつもりなのだろうか」と話し合ったのです。
これは、ユダヤ人たちのキリストに対するまったくの無知からきた、あさはかで自分勝手な想像に過ぎませんでした。
そのような人々に、キリストは「わたしはある」ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる、とおっしゃったのです。
それでは、「わたしはある」とはどういうこでしょうか。ガリラヤ湖が荒れ始めたころ、キリストは湖上を歩いて弟子たちに近づかたことがありました。弟子たちはそれを見て恐れました。その時、「わたしだ、恐れることははい。」(6 : 20)と声をかけられました。また、「わたしは世の光である。」(8 : 12) と教えておられます。
これらは、ご自分がそれだということを、おっしゃったのであって、この場合の「わたしはある」は、それとは違った深い意味をもっているのです。それは、キリストが永遠から永遠に存在しておられる神ご自身であるということです。
ユダヤ人たちは、目の前にいるキリストを、ナザレの大工ヨセフの息子に過ぎないと考えていました。それとは違い、キリストは、父なる神から遣わされた神のみ子であり、永遠から永遠に存在しておられる神ご自身なのです。
そのことが、分からなかったら、信じられなかったら、救いを得ることなく、自分の罪のうちに死ぬことになるのです。今、私たちは、キリストが神の永遠のみ子であり、永遠から永遠にいます救い主であることを信じて、救われているのです。キリストが「わたしはある」と主張なさることのできる唯一の救い主であることを信じて、救われているのです。
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