『 第121回 父なる神と共にいる 』


 今回のテーマは、「父なる神と共にいる」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第8章29節です。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしはいつもこの方の御心に適うことを行なうからである。」

 救い主イエス・キリストが、真の救い主であることを理解し、信じるためには、キリストと父なる神の関係をただしく把握することが絶対に必要です。

 当時のユダヤの宗教的な指導者である学者やファリサイ人は、自分たちの目の前にいるイエス・キリストを、ナザレの大工ヨセフの息子、自分たちと同じ人間であると信じて疑いませんでした。ですから、キリストが、どんなに御自分が父なる神から遣わされたと説き明かされても、それを受け入れようとも、信じようともしませんでした。

 ヨハネ福音書の8章27節に、「彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。」とあります。

 救い主イエス・キリストは、御自身がいかに父なる神と一体であるかを、繰り返してお語りになっておられます。それが、「わたしをお遣わしになたった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。」という、御言葉によく現われています。

 キリストは、父なる神から遣わされて、この世に救い主として到来されたのです。そして、いつも父なる神が共にいてくださったったのです。すなわち、救い主イエス・キリストは、父なる神が共にいてくださる、人の姿を取った神御自身だったのです。

 すでに、1章1節で、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と、その真理が教えられていました。言は、この世に到来される前のキリストのことです。

 永遠からキリストは存在しておられました。キリストは父なる神と共におられ、神御自身だったのです。この神の永遠の御子であるキリストが、父なる神から遣わされ、この世に人の姿をとってお降りになり、救いのお働きをなさったのです。キリストは、真の神であり同時に真の人として、父なる神との深い交わりの中で、救いを成就されたのです。

 父なる神と共におられる救い主イエス・キリストを信じて、私たちは救われるのです。


『 第122回 父が共にいてくださる 』


 今回のテーマは、「父が共にいてくださる」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第16章23節です。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしを ひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」

 目前に迫ってくる十字架の死を前に、救い主イエス・キリストは、弟子たちに語っておられます。「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」これまで3年の間、寝食を共にし、教えを授け、訓練してきた弟子たちが、自分を捨ててしまうというのです。

 これは、通常では考えられないことです。しかし、十字架の前で実際に起こったことです。弟子の一人であったイスカリオテのユダの裏切りによって、救い主イエス・キリストは、敵に捕えられてしまいます。

 マルコによる福音書は、そのときに起こったことをこう書き記しています。14章50節「弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまった。」何ということでしょう。自分の命を捨ててでも最後まで従うと言ったペトロまでが、逃げてしまったのです。十字架の前で、最も信頼していた弟子に裏切られることは、とてもつらいことだったに違いありません。

 しかも、十字架の刑罰をお受けになるのは、罪のないキリストが、ご自分の民のために身代わりの犠牲として、身をささげられることなのです。孤独という言葉があるなら、これこそ、究極の孤独ではないでしょうか。

 その孤独の中で、救い主イエス・キリストは、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる。」と、父なる神とご自分が一体であることを告白されたのです。それは、父なる神への全き信頼の表明でもありました。

 たとえ、この地上で愛し育てた弟子たちが皆、一人残らず逃げ去っても、父なる神は決してお見捨てにはならない。これが救い主イエス・キリストの父なる神への信頼でありました。あなたは、父なる神に全き信頼をおいて、あなたの身代わりとなって十字架につき、救いを得てくださったあなたの救い主を信じるのです。また、信じて従うのです。


『 第123回 父がおあたえになる人 』


 今回のテーマは、「父がお与えになる人」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第6章37節です。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」

 父なる神と御子キリストがいかに一体となって、救いのお働きをなさっておられるかを、この御言葉は私たちに告げています。私たち罪ある人間の救いのスタートはここにあります。これは、父なる神と御子キリストが、永遠の契約の中で、相互に約束された約束から始まっていることなのです。

 救いは、決して、偶然の出来事として起こるのではありません。人間の目から見れば、救いに導かれるキッカケが偶然としか考えられないことであっても、信仰と救いへと導かれる背後には、父なる神が御子キリストに与えると約束された永遠の約束があるのです。

 これは、罪ある人間の救いが、神の永遠の御心の中で始まっていることを証ししています。確かに、救い主イエス・キリストを信じるのは信じるその人です。ですが、生まれながらの罪の故に信じる力を持たない、霊的に無能力となっている者が信じることのできるのは、外からの超自然的な働きの導きがあってのことです。それは、神の御言葉と聖霊のお働きによるのです。そのお働きの流れが湧き出てくるのは、父なる神と御子キリストの永遠からの約束という泉からです。

 それゆえに、救いは絶対的なもので、キリストが救い主としてお救いになる者は、決して再び堕落して、滅びに陥ることはありません。この救いの絶対的な確実性は、キリストの御言葉によって保証されているのです。

 「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」追い出さないとは、捨てないということです。神の御言葉と聖霊に導かれて、真の信仰によって、キリストを救い主と信じた人を、決して捨てないと約束しておられます。

 たとえ、どんなに弱い信仰でも、薄い信仰でも、転んだりつまずいたりする信仰でも、それが真の信仰であれば決して捨てられることはありません。この確実な救いと信仰の土台の上に立って、悔い改めつつ信仰生活を営み続けるのが、クリスチャンなのです。信じているあなたなのです。


『 第124回 父とわたしは共に住む 』


 今回のテーマは、「父がわたしは共に住む」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第14章23節です。「イエスはこう答えて言われた。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。」

 日本のキリスト教会は、今日までの福音宣教で、たえずキリストの十字架による救いを前面に押し出して宣べ伝えてきました。それは、伝道においてはとても大切なポイントです。しかし、救い主イエス・キリストが、父なる神と一体となって、救いのお働きをしておられるという点については、どれほど声を高くして語ってきたでしょうか。

 残念ですが、その声はあまりも低すぎたのではないでしょうか。ところが、ヨハネによる福音書は、首尾一貫してこの点を強調しているのです。

 ここでも、救い主イエス・キリストを愛する人、すなわち、神の御子を愛する人は、キリストの言葉を守る人であり、父なる神はその人を愛されると、教えてられております。キリストを愛し、キリストの御言葉に服従する人は、父なる神に愛される人なのです。

 しかも、父なる神とキリストはその人のところに行き、一緒に住んでくださるというのです。これは何とすばらしいことでしょう。また、光栄なことでしょう。生まれながらの罪ある人間、罪ゆえに死と滅びが当然な人間に、父なる神とキリストが共に住んでくださるというのですから、その救いの恵みの豊かさに圧倒されてしまいます。

 キリストの十字架の贖いを信じて救われる人には、キリストの御言葉と御霊によって、父なる神とキリストが共に住んでおられるのです。十字架は救いの中心的な出来事です。しかし、その中心だけを見つめ続けて、救いの広がり、三位一体の神の救いの壮大さをを見落としてはなりません。 

 あなたが、キリストを救い主と信じて信仰生活を続けるとき、父なる神とキリストは、あなたの心に来てくださり、常に、絶えず、一緒に住んでおられるのです。

 この超自然的な恵み、恵みの契約の仲保者キリストによって実現し、信じるあなたに授けられた救いが、このように、永遠、無限、不変の広がりをもっていることに感謝いたしましょう。


『 第125回 父の教えはわたしの教え 』


 今回のテーマは、「父の教えはわたしの教え」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第7章15節、16節です。「ユダヤ人たちが驚いて、『この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう』と言うと、イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。』」
 
 ユダヤ人たちは、救い主イエス・キリストを、ナザレの大工ヨセフの息子と考えていました。それは、自分たちと同じ一人の人間にすぎないということです。ですから、無学な大工の息子が、聖書をよく知っていることに非常な驚きを覚えたのでした。

 このユダヤ人の発言に対して、キリストは、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」と、お答えになったのです。これは、この地上で、キリストがメシアとして救いのお働きをなさったすべての時を通して語られた教えは、全部が父なる神の教え、父なる神のお考えと一致するということです。

 もし、ユダヤ人たちが、父なる神の教えを知ろうと思うなら、父なる神の教えを語っておられるキリストの教えを素直に聞き、受け入れ、信じなくてはならなかったのです。

 ユダヤ人たちは、キリストの外面だけを見て、その教えには驚きましたが、その教えがどこから出て来ているかを考えませんでした。

 また、父なる神の教えを忠実に行なっておられるキリストの行ないそのものを見て、それが、人間の力をはるかに越えた業であることに驚きながら、父なる神から出ていることに思い至りませんでした。

 そして、ついには、キリストがご自分を父なる神と一つにしているとゆう理由で、神を汚す者として、ユダヤの律法に照らして死刑に当たると断定し、ローマの総督ピラトの手で十字架につけたのでした。

 ここに、人間の思いをくらます強力な罪の力の働きを見い出すことができます。今、キリストの御言葉を聞くとき、それが、父なる神の御言葉であり、キリストの教えを聞くとき、それが、父なる神の教えであることを、確信して、受け入れ、信じ、従いましょう。


『 第126回 父の言葉を聞く 』


 今回のテーマは、「父の言葉を聞く」です。神の御言葉は新約聖書ヨハネによる福音書第14章24節です。「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしの言葉ではなく、わたしをお遣わしになった父の言葉です。」

 救い主イエス・キリストと父なる神が、神というご性質において、また、そのお考えとお働きにおいて、全く一つであることを、何回かにわたって見てまいりました。

 ここで、キリストは、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」と語っておられます。キリストを愛すという人格的な営みは、キリストの言葉を守るという人格的な行為と一体なのです。

 なぜなら、それは、生きた信仰から出る行為だからです。信仰から出る愛と行為は一体です。信仰者にとってこの二つは切り離すことができません。

 もし、キリストを愛していると言いながら、キリストの言葉に聞き従うことに熱心でないなら、それは健全な信仰生活ではありません。その反対に聞き従うことに熱心であると自認していても、キリストへの愛がなければ、健全な信仰生活ではありません。

 キリストは、弟子たちが聞いている御自身の言葉は、「わたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と、語っておられます。キリストがお語りになった言葉、すなわち、福音がキリストのものではなく、キリストをこの世にお遣わしになった父なる神のお考え、御心、意思そのものなのす。

 この父の御旨を、キリストの口を通して聞き、そのお働きを通して知ることによって、弟子たちは父なる神のお考え、御心、意思を実際に聞いているのです。そして、聞いた言葉を行なう者が、キリストを愛すことができるのです。

 私たちが、キリストの福音を聞いて信じ、信じてキリストの言葉に従うところに、はじめて、真実なキリストへの愛があるのです。

 ですから、キリストを心から愛したいと願うなら、ますます熱心にキリストの御言葉を聞かなくてはならない、ということが分かります。

 そして、この世に御子キリストをお遣わしになった父なる神の御言葉を、キリストを通して聞くことに熱心であるとき、信仰は霊的に祝福と力を増し加えられるのです。


『 第127回 父なる神に身を献げる 』


 今回のテーマは、「父なる神に身を献げる」です。神の御言葉は新約聖書フィリピの信徒への手紙第2章6〜8節です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 使徒パウロは、ここで、キリストの生涯のほとんどすべてのことを短く要約して教えています。第一に、キリストは、この世に来られる前に神の身分を持っておられ、神と等しい方であったというのです。これは、キリストがその本質において神であったということです。

 第二に、その栄光に輝く状態を、そのまま保つことを固執されずに、輝く栄光を天においたままで、この世においでになりました。神であるままで、この世に来られたのです。ただし、見るべき本来の栄光の輝きは、そこにはありませんでした。

 第三に、ご自分を無にして来られました。それは、父なる神の御心に完全に服従して、父なる神が遣わしてくださったその御旨に添っておいでになったということです。キリストは自らの自己主張を退けて、父なる神に服従なさったのです。

 第四に、僕の身分になられました。永遠の神の御子であるキリストは、万物の創造者、支配者として主の立場にありながら、仕える者、すなわち僕の身分となられたたのです。

 第五に、人間と同じ者になり、人間の姿でこの世に到来されたのです。キリストは見えない神でありつつ、人間の姿を取り、見える姿もって現れてくださいました。永遠の神でありつつ、同時に、罪のない真の人となられたのです。

 第六に、キリストの謙遜は、一つには、罪の贖い主として、キリストを信じる者が受けなくてはならない罪ゆえの苦難を代わって受けてくださったこと、もう一つには、神が人間に要求しておられる償いのすべてを成し遂げてくださったことにおいて、神の刑罰をう受けてくださったことにおいて現わされています。

 父なる神に完全に身を献げられたキリストを信じて、あなたも私も救われるのです。


『 第128回 クリスチャンの献身 』


 今回のテーマは、「クリスチャンの献身」です。神の御言葉は新約聖書ローマの信徒への手紙第12章1節です。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 前回お話ししましたように、神の御子救い主イエス・キリストの献身は、罪の贖い主として父なる神にご自身をささげることでした。

 では、キリストの救いを信じて救われたクリスチャンの献身はどうなるのでしょうか。
パウロは、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と述べています。これは、献身は勧められて、自発的にその道を選びとるものであって、決して、命令されて、いやいやながらすべきものではないということを教えています。

 社会人として会社て働いている方が多くおられます。いわば、その一人一人は会社に身を献げて働いているのです。その意味では会社への献身です。これは、社長はじめ上の地位にある方の命令であれば、どんなにきつくても、やりたくなくても、絶対に服従しなくてはならいという面をもっています。そのことによって給料を得ているのですから。

 ところが、クリスチャンは自分の信仰によって、自発的に献身するのです。そして、献げるものは、「自分の体」です。体とは、単に肉体ということではありません。

 体と心をとおして営まれる生活全体ということです。生活全体ですから、その中には教会の日曜日の礼拝も入っていますが、月曜日から土曜日までの週日のすべての日も入っています。クリスチャンで会社に勤めている人、学校に通っている人、主婦として家庭で過ごす人など千差万別です。

 働ける人も、病気で働けない人も、クリスチャンであれば、例外なしにすべてのクリスチャンが、自発的に、神に生活全体を献げて、献身の生活をするのです。今の時代、自発的に神に生活全体を献げて、献身の実を現わしていけるとは、何とすばらしいことではないでしょうか。


『 第129回 献身は犠牲をはらって 』


 今回のテーマは、「献身は犠牲をはらって」です。神の御言葉は新約聖書ローマの信徒への手紙第12章18節です。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 クリスチャンの献身は、生活全体を挙げてなされます。

 その信仰生活全体が、「聖なる生けるいけにえ」と呼ばれています。「いけにえ」は犠牲のことです。キリスト者一人びとりが、献身の生活を営むとき、そこには、必ず犠牲を払うという避けることのできない信仰の戦いが待ち受けます。

 キリストは、弟子たちにこうお語りになりました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイによる福音書16:24)犠牲を払うということは、自分の十字架を背負うことに外なりません。十字架を背負って歩むとは、信仰の戦いをするということです。

 人生には予期しない突然の災害、事故をはじめ病気やその他の苦しみが待ち受けています。たとえば、病気一つをとっても、簡単に治るものもあれば、一生治らないものもあります。その回復への忍耐やつらさは、その病いにかかった人でなければわからないものも沢山あるはずです。しかし、これらの病いは、キリスト者だけに襲うものではなく、この世のキリスト者でない多くの人にも襲います。それを耐え忍び、回復を目指して努力することは、
信仰をもたない人でもすることです。

 これに対し、信仰そのものが迫害され、時には、信仰を捨てるように要求されることがあります。また、世俗の力が信仰を弱らせ、信仰から離れさせ、信仰を消しさろうと働いてくる場合があります。その時、真理ご自身であるキリストに従う道を選び取るのが、信仰の戦いです。 

 献身には、この信仰の戦い、すなわち、自分の十字架を背負う戦いが必ずともないます。信仰のゆえに犠牲をはらうことが求められるのです。この戦いを放棄しては、献身の実を現わし、神に喜んで受け入れてもらうことができません。キリスト者は、信仰を守り、信仰の成長を得るための戦いをするのです。


『 第130回 救いの主語は神 』


 今回のテーマは、「救いの主語は神」です。神の御言葉は新約聖書ローマの信徒への手紙第3章25節です。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 聖書は、私たち罪ある人間の救いをさまざまな角度から教えています。
 救いといいますと、普通、私たちは、どうすれば救われるのだろうかとか、私のように罪深い者が救いを求めること自体が間違っているとか、この世でいいかげんな態度で生きてきた者は救われないとか、人間を中心に、私自身を中心に考えるようになりがちです。

 使徒パウロは、ローマの手紙で、救いについての正しい考え方を教えました。3章25節の最初は、「神はこのキリストを立て、」となっています。ここで、罪ある人間の救いは神から出ることを明らかに示しています。それが、「神は」という主語なのです。

 「神は」ということは、救いは神の側の主権的な恩寵によって計画され、実現され、授けられるものである、ということです。換言しますと、救いは神のものであるということです。ですから、どのような意味でも、人間と人間の良い行ないが主語になることはできません。救いは神から出るものであって、人間から出るものではありません。

 そのことがわかりますと、救いについての根本的なことがはっきりします。私は長い間老眼をかけていますが、老眼がないと小さな文字は読めません。ところが、聖書であれ、新聞であれ、老眼をかけると小さな文字もはっきりと見えて、隅から隅まで読み通すことができます。

 救いの主語は神からであり、救いは神から出るものであり、神のものであるということがわかると、老眼を用いたときのように、霊的な目が開かれて、救いがはっきりと見えるようになります。

 救われたいと願いながら、いつも、自分の罪深さや弱さなどを最初に考えて、救いは自分からは遠いものであると思っておられる方はいらっしゃらないでしょうか。

 そのような方は、救いの主語が「神」であるということに目を移してください。そして、神と神の御子救い主イエスきりとに信頼することが、救いに至る近道であることを悟り、その近道を歩いてくださいますように。


『 第131回 罪を贖うキリスト・イエス 』


 今回のテーマは、「罪を贖うキリスト・イエス」です。神の御言葉は新約聖書ローマの信徒への手紙第3章24節です。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 罪ある人間、すなわち、生まれながらの罪ある人間である私たちの救いは、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して」なされます。罪のある人間が、自分の罪の贖いをなして、救いを神から受けることはできません。人間は、自分で自分の罪の贖いをなして、最後的な決着をつけることは出来ないのです。

 神は、救いのためにご自分の愛する御子キリストをこの世にお遣わしになりました。遣わされたキリストは、父なる神の御心に完全に服従するという仕方で、罪の贖いの業を成し遂げられました。罪の贖いの業とは、キリストの救いのお働きのことです。

 パウロはここで、「イエス・キリストによる贖い」とは書かずに、「キリスト・イエスによる贖い」と書いています。キリストが先に来ています。イエスは、救う者、救い主という個人名です。キリストは油注がれた者という職務を現わす名です。

 旧約聖書では、預言者、祭司、王の職務につくときに、任職の油が頭にそそがれました。キリストは、神の御子として、聖霊の油注ぎを受け、預言者、祭司、王の職務を一人で成し遂げ、罪の贖いのお働きを成就されたのです。

 ですから、職務、働きに関わる名を最初に挙げたのです。キリストは罪の償いの供え物として罪のないご自分の体を神の前に供え、刑罰を受けてくださいました。そのことによって、罪を償いなさいという神の義の要求をことごとく満たしてくださったのです。

 それがキリストの全生涯を通しての、特に最後の十字架によって代表される贖いの業、救いお働きだったのです。キリストは、キリストを救い主と信じる者たちの身代わりとなって、十字架にかかられたのです。

 キリストが、神の義の要求を満たし、神の前に通用する義を得てくださいました。そのキリストを救い主と信じる者に、キリストの義が転嫁され、信じる者がキリストにあって、義と認められ、罪赦され、永遠の命をいただくのです。


『 第132回 与えられる神の義 』


今回のテーマは、「与えられる神の義」です。神の御言葉は新約聖書ローマの信徒への手紙第3章22節です。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」

 「神の義」という言葉を聞いて、どんな印象をもたれるでしょうか。多くの方は、何か厳しいものという印象をもたれるのではないでしょうか。

 神の義ですから、神がもっておられる義のことで、とても峻厳なもの、罪に対して刑罰を与える神の性質と感じてしまう方があるのも当然のことです。

 たとえば、使徒パウロが、フィリピの信徒への手紙3章6節で、「熱心さの点については教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。」と書いています。これは、パウロが復活したキリストに捕えられる前、キリスト者となる前の自分を回想して語っている言葉です。

 そこに「律法の義」という言葉が出ています。これは、神が律法を通して、人間が守るように命じておられる神の義の要求のことです。ユダヤ教の信者であった時のパウロは、自分の行ないによって、その義の要求を「非の打ちどころがない」ほど完全に実行していたというのです。

 しかし、私たち生まれながらの罪人である普通の人間にとって、それは遠く及ばないことです。義の要求を突きつけられたら、即座に、それを行なうことのできない罪深い者であることを告白しないではおれません。

 パウロも、律法を通しての神の義の要求からは遥か遠くにいたのですが、その当時は、それに気づいていなかっただけのことです。事実、パウロはローマの信徒への手紙3章20、21節でこう述べています。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

 ところが、この律法の義ではなくて、イエス・キリストを信じることによって、「信じる者すべてに与えられる神の義」がるのです。正しい行ないをせよと要求する神の義ではなくて、救い主イエス・キリストを信じる者に与えられる神の義があるのです。


『 第133回 神の義はキリストの義 』


 今回のテーマは、「神の義はキリストの義」です。神の御言葉は新約聖書ローマの信徒への手紙第3章24節です。「ただキリストイエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 キリストを信じる者一人びとりに与えられる神の義は、いったいどこにあるのでしょうか。しかも、その義は、信じた者に授けられ、授けられた者は、罪を赦され永遠の命をいただくのです。
 
 生まれながらの人間は、最初の人アダムにあって罪を犯し、罪人となりました。神は、その罪人に罪の責任を取りなさいと求めておられます。たとえるなら、罪という泥を神の顔に人間は投げつけたのです。それが、命の契約を破るという出来事でした。

 神は、人間に、その泥を完全に取り除きなさい、罪を償いなさい、と義の要求をしておられるのです。人間は、罪人ですから、自分でその要求を完全に満たす善い行ないをして、罪を償い、神の顔から罪という泥を取り除くことはできません。もしそのまま、神の義の要求を満たさないなら、人間は裁きを受け、永遠の滅びに陥る以外にありません。  

 その滅び以外にない罪ある人間に代わって、罪の責任を取り、神の義の要求を完全に満たすために、神はご自身のみ子キリストをこの世に救い主として、お遣わしくださったのです。ここに、神の無限の愛があります。

 キリストは、聖霊の力により母マリアの胎内に宿り、罪なくして人の姿を取ってお生まれになりました。そして、この地上でさまざまな試練や誘惑を受けられましたが、十字架の死に至るまでの間、一度も罪を犯されませんでした。

 キリストは、父なる神に完全に服従し、義の要求をことごとく、ご自身の行ないによって完全に満たされました。それは、もちろん、罪のないご自分のためではなく、罪ある人間の身代わりとしてなしてくださったことです。そして、神の顔に投げつけられた罪という泥をすべて取り除いて、救いと赦しを得てくださったのです。

 これが、キリストの罪の贖いの業であって、父なる神への完全な服従を通して、キリストは神の義の要求を満たし、義を得てくださったのです。こうして、信じる者に、このキリストの義が授けられ、神は、その者を義人と認め、罪を赦してくださるのです。ここに救いがあります。与えられる神の義は、キリストが得てくださったキリストの義なのです。


『 第134回 神が与えてくださる 』


 今回のテーマは、「神が与えてくださる」です。神の御言葉は新約聖書ローマの信徒への手紙第3章22節です。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」

 キリストを救い主と信じる者に、神が与えてくださる神の義は、キリストの義であることを前回お話しいたしました。

 キリストが獲得してくださったこの義が信じる者に与えられます。私たちが、ある人から一冊の聖書をプレゼントされたといたしましょう。与えられた物は聖書ですから、目に見える品物として手元に留まります。そのように、通常、物を与えられたときには、見えるものとして手元に残ります。もちろん、チョコレートのようなものであれば、口に入ってすぐに消えてしまいますが。

 しかし、与えられて、目に見える品物を受けたという点では変わりありません。ところが、例えば、別れ際に「お元気でね」という挨拶の言葉を受けた場合はどうでしょう。そこには、目に見えるものは何も残りません。しかし、その言葉に込められた情愛とか友情は心に残ります。

 目に見えない挨拶を受ける仕方と同じように、もう一つ、裁判の判決を受ける与えられ方があります。「無罪」という判決が下されたとき、目に見えるものは何も与えられませんが、裁判長の判決の宣言、その一言によって、その人は被告人から罪のない人に身分が変わるのです。これは、法的に与えられ、宣告の結果生じる身分の変化です。

 そのように、神が、キリストを救い主と信じる一人びとりに、キリストの義を与えてくださるとき、それは、法的に転嫁するという方法によってです。キリストの義は目に見ることは出来ません。しかし、確実に与えられるのです。そのとき、法的な宣告を通して、信仰が義と認められ、罪の赦しが授けられます。

 これを信仰義認の恵みと呼びます。キリストの義を転嫁された罪人は、そこで、「義人である」、「罪を赦す」と宣告され、神の子供へと身分が変わり、神との交わりが赦されるのです。この与えられる救いの恵みに感謝いたしましょう。


Last updated : 2008/01/01

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