教会の通ってきた道

〜プロテスタント開教から日本基督改革派教会設立へ〜


 

三、日本基督教団合同

 

(一)教団合同への過程

 この「日本教会宣教の系譜」というものをさらに進んでゆきますと一九四一年から一九四六年までの間、縦に日本基督教団合同と太い字で書かれています。今日日本基督教団といいますと日本における最大のプロテスタントの教派でありますけれども、ここでは合同とありますようにこれは日本のほとんどのプロテスタント教会が一つにまとめられたグループの名前であります。

 日本基督教会となってから五十年が過ぎており、この間にも様々なことがあったんですけれども、そうしたことは時間の関係で見ることが出来ませんので、一気にこのあたりの部分に目を向けたいと思います。

 また、私たちの日本基督改革派教会の創立三十周年の宣言の序文を見ますと、「しかし、私たちは、宗教団体法下の教会合同に連なったものとして、同時代の教会が犯した罪とあやまちについて共同の責任を負うものであることをも告白いたします。戦時下に私たち日本の教会は、天皇を現人神とする国家神道儀礼を拒否しきれなかった偶像崇拝、国家権力の干渉のもとに行なわれた教会合同、聖戦の名のもとに遂行された戦争の不当性とりわけ隣人諸国とその兄弟教会への不当な侵害に警告する見張りの務めを果たし得ず、かえって戦争に協力する罪を犯しました。」こういうことを三十周年宣言はうたっております。そこではっきりと示されていますように、この表で縦に書かれています日本基督教団合同というものは、宗教団体法というものによってなされた国家からの圧力の結果でありました。

 何回かにわたって宗教法案、そして宗教団体法案というものが国会に提出されてゆきます。でもなかなかこれは成立しなかったんです。なぜ長々と時間を費やしてしまったかといいますと、その大きな原因はやはりキリスト教会が反対したからであります。

 なぜ反対したのかといいますと、これは御言葉の真理を守るために他なりません。事実法案が提出されるということが分かりますとキリスト教界、特に日本基督教会が強くこれに対して反対しました。けれども、月日と共に教会の態度もだんだん穏やかなものになってしまい、ついには一九三七年(昭和十四年)に第二次宗教団体法案というものが成立するということになったのです。

 これは、先ほども申しましたように、日本の国の権力との関係ということがあったことは事実なんですけれど、でも教会の側、キリスト教会の側にも、ああ、日本の教会が一つになってゆく、ここに明治の昔、最初の日本基督公会というものが出来たときにあった、あの理想の教会の姿が実現するんじゃないか、これはいいことではないか、という思いがあったんです。ですから、この教団合同というものは国の権力という外側からの圧力と、教会が合同して一つになりたいという教会内部からの思いというものが相合わさってこのような仕組みが出来上がった、これがこの年表に縦に書かれているところであります。

 この教会の内側から出てきた考えというものも、外の状況、当時の社会状況と無縁ではありませんでした。国家が戦争へと向かってゆけばゆくほど国民の国家意識は強められ、いわゆる国体の精神が国民の中に広がってゆきましたし、そうしますとやはりキリスト教というのは邪教であるというレッテルが貼られるわけです。

 一八七三年にキリシタン禁制の高札が撤去されたとはいえ、依然としてキリスト教というものは少数であり、ともすれば異端視されるわけです。戦争という状況の中でキリスト教嫌いはますます盛んになってゆく。ですから、そういう嫌われ者の自分たちが国家によって認められるんだ。国の方から「あなた達まとまってグループを作ったらどうですか」と、こう言われて、保護を受けられる、安全であるという思いも当時の指導者達に見え隠れしていたようであります。それと、先ほども言いましたように教会の合同というものはキリスト教会の目指す一つの理想であるという動き。これと共にこのような方向に進んでいったのです。

 そもそもこのようなグループを形成すると言ったときに国の文部省が示したことは、一つになるといったときに、教会数が五十,信徒総数が五千人以上というものが教会であって、それ以下の、いわゆる弱小なものはだめだと。もういろいろありますと指導するとき大変ですから、大きなグループはいい、でも弱いものはみんなくっつけ、ということになったんです。

 当時この基準にかなったのは七教団、失格したのは十六教団でありまして、見て参りますと、日本基督教会は一つの教派として認められ、合同する必要はこの時はありませんでした。ところが文部省側は、いやこの際一つになってしまったらいいんじゃないか、ということを強力に申し出てきて、先ほど申しましたような教会の中にあったいろいろな思いというものが重なり合って、日本基督教団というものが出来たわけです。

 こうして日本基督教団の創立総会というものが開かれたわけであります。私がプリントしたものでは注の九のところに日本基督教団創立感謝大会と書いてある、こういうことであります。その時に「我らキリスト教信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠をつくすをもって第一とす。」こういう風に宣言をしたわけであります。ですからその宣言したその様子、その宣言のあかしとでも言ったらいいのでしょうか、それがこの創立感謝大会のプログラムの最初の方の項目というものに、このような形で表れているわけであります。こうしたことを考えて動いていったわけですけれども、当初はこの合同というものはいわば本当にグループというように、例えば、長老主義の教会であればその特徴を持ったまま、日本基督教団と看板を書き換えるようなものだったわけであります。その中に何々部というものを残して、元あった教会のいろいろな特徴や伝統というものを活かしつつ教会の活動が出来るというところがありました。そこで、まあそういう自分たちのこれまで先輩から受け継いできた教会の特徴というものを持って、でも看板を書き換えるだけなんだ、日本基督教団なんとか教会とするだけだというようなことが言われていたために、教会はそちらの方に動いたんです。しかし、一つにまとめてしまえばこれはもう文部省のものでありまして、もうそんな面倒くさい何部何部なんてものは解消しろと言うことで、もう日本基督教団と合同が行われた翌年にはそんなものは一気になくなってしまいました。それこそ看板の書き換えだけではなく、教会は大切な信仰の遺産をそこで失うという姿を強いられてしまうわけです。


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