教会の通ってきた道

〜プロテスタント開教から日本基督改革派教会設立へ〜


 

(二)その後の動き

 そしてこの、教会が国家の下に服するという一つの象徴的な出来事として例えば、教団の統理という一番の責任者が伊勢神宮に参拝にゆく、各教会で国民儀礼が求められるというような状況になってしまったわけであります。こうして教会の礼拝はおおかた宮城遙拝など国民儀礼で始まり、説教の内容をチェックされ、信教の自由というのは完全に骨抜きになってしまったわけです。

 このことをよく歴史家達は日本基督教などという言葉で言うようでありますけれども、天皇を頂点とする神道儀礼に服してしまう、まずそれを行ってから神様を礼拝するというような事柄が各地の教会に広まってしまったわけであります。

 ただ、こうした国民儀礼を強いられた基督者達はもちろん喜んでそのようなことを行ったはずはないわけです。形の上ではそういうことをしたわけでありますけれども、信仰は堅く守り続けてゆこうということはこれは間違いなかったと思うのですね。しかし、このような誘惑というものは別にこの時代ではなくても、いつの時代でもキリスト者が陥りやすい、その危険のあるものではないかと思うのです。

 聖書の中の、新約聖書の第一コリントの八章などにありますように、そこでパウロが強調しますように、偶像などというものは本当は存在しない、しかし私たちがキリスト者から見て偶像と呼ばれるものを信じている人たちは私たちの周りにもちろんたくさんおります。ですから、コリントの教会で、偶像の宮で食事をしていることを、キリスト者が食事をしているところを見たときに、周りのものが間違って教育されることをパウロは非常に厳しく指導し、恐れています。

 あることをしたとしてもそのこと自体神様の御言葉によれば、意味のないこととしてもそこに世間の人たちは宗教的な意味を込めていると言うことになります。別にちょっとくらい頭を下げて、手を合わせても心は別のところに行っているから大丈夫だとキリスト者が思ったとしても、それを見て世間の人はそうは思いません。まあキリスト教徒も日本の神を拝むんだな、と実際そう思われてしまったわけなんです。

 けれども、日本の教会はただ指をくわえて眺めていたわけではありません。その一つが改革派教会の創立者でもあります岡田稔先生と灘教会の動きであります。岡田先生は先ほど申し上げましたその部制というものが廃止されたその翌日一九四三年四月二日に会員総会を開きまして、先生の手による信仰告白と、その解釈基準として先生の訳されたウエストミンスター小教理問答を持って単立教会への道を歩みました。そしてその時に我らの願いを一日も早く我が教会と同じ信仰を告白する教会が現れる時を待つんだ、ということを願ったんです。実際、その祈りが、願いが実を結ぶのは三年後、日本基督改革派教会の創立ということを待たなければならなくなってしまったわけですけれども、その時に強い決意と祈りがあったことは事実であります。


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