宗教改革のスピリット
〜カルヴァンとジュネーヴ教会より〜
| しばらく前に鈴木牧雄先生から今回のことについてお電話をいただきまして、土曜の夜には青年たちの方々を中心とした集会を持つので、カルヴァンについてのお話をということでした。 そもそもこの会が、だいたい毎年宗教改革記念日といわれる十月の終わりのこの時に近い土曜日、日曜日に行われるということを聞きましたので、そのようなところからこのテーマを選びました。 先月もある集会に出ましたときに、他教派の牧師たちも何人も来ていたところなんですが、その時私が日本基督改革派教会の牧師であるということが分かりますと「改革派と言えばカルヴァンですね」ということを言われたんです。どうも外側から見るとそういう風に思われているようで、カルヴァンの事というのはみんなが良く聞いている、耳にタコができるほど知っている、というようなイメージがあるようです。けれども、ふと考えるときに、私自身は、今自分のおります教会でもこういう話をしたことはなかったな、と思いました。 それで、この機会に、もう既に何度もお聞きになっているかもしれませんけれども、でも若い時に一度はこのようなカルヴァンのことに関する事柄を耳に挟むことは、きっとこれからの長い信仰生活の上に何かのプラスになるのではないかと思いまして、今日はこのようなテーマを選ばせていただきました。
一、はじめに カルヴァンの生涯(年表に従って)
まずカルヴァンという人なんですけど、お配りしましたプリントの年表の横に顔を出しておきました。これは書物からコピーしたあと印刷したので、お化けのような顔になり、背景が黒のうえ黒いインクで刷ったのでこんなになってしまいました。でも、カルヴァンというとだいたいこういう顔になりますので、いろいろな書物をバラバラとごらんになって、ああ、こんな顔で丸顔ではない、こういうような顔をしていたのではないかな、と思われているのです。 この人の簡単な紹介については、ちょうど顔が印刷してある裏に地図を載せておいたのですが、その右横に簡単にカルヴァンの紹介が書かれていますが、これはいのちのことば社から出されています「新キリスト教辞典」からのコピーでありまして、一番下にこれを書かれた方の名前が記されています。この森川さんという方は板宿教会の長老さんでありまして、カルヴァンの研究家として日本の中で大変有名な方であります。凝縮すればだいたいこういうことになるわけですけれども、もう少しここに書かれていることを詳しく見ることができるのが、先ほど顔を印刷しておきました横にあります年表ということになります。それでこのカルヴァンという人はそこにありますように一五0九年の七月十日フランスのノワイヨン、地図では左端の方になるでしょうか、ノワイヨンというところで生まれました。その後辞典のコピーや年表にもありますように、いろんなところで様々な働きをいたしました。 はじめの頃は、父親の勧めもありまして法律の勉強をしていたのですけれども、一五三一年にお父さんがなくなられたあと、古典文学の研究の道に進みました。その時にセネカ「寛容論、註解」という作品を発表しています。このような道に進んでいたわけですけれども、そのあとにありますように、だいたい一五三三年の始め頃、宗教的改心を経験しまして、一五三六年キリスト教綱要の初版が出版されました。三五年に初版を書き上げるとなっていますが、これは日付が一五三五年八月二三日となっているわけで、このあたりを年表でさっと見てしまうと、ああそうなのかというぐらいなのですけれども、このころの事情というものがいろいろありまして、当時、この舞台となりましたフランスは絶対王政の確立を目指しますフランソワ一世の下にありました。この年表の線の下に一五三三年「王室とパリ大学神学部との対立激化」と書かれていますね。これは日本とはいろいろな意味で状況が違いますのでわかりにくい点もありますが、王宮で語られていましたいわゆる福音主義的な連続講解説教がカトリック教会を激しく憤らせることになってしまいました。 そんなことからお互いに批判するパンフレットが出回ったり、いろいろな中傷合戦があったりというわけで騒然となって参りまして、だんだんと福音主義者への迫害が加わってきました。 その頃カルヴァンはキリスト教綱要の原稿の仕上げにかかっておりまして、黙々とその作業をしていたわけです。しかし迫害がひどくなりまして、親しい信者の仲間たちが次々と殺されてゆくというものを見聞きしていたわけです。その時に、やはりカルヴァンも自分も一緒に戦って神様のために殉教しようということを願ったようです。でも仲間たちはそれを許しませんでした。むしろ自分たちにはない賜物を与えられているこの者に立派な作品を書かせたい、この面で貢献してほしいということを願って、文書をもってむしろ信仰の証をたてることを仲間たちは勧めたわけです。そこでカルヴァンはそういう支援に感謝しまして自分が書き上げましたキリスト教綱要をフランソワ王に献呈して、迫害をやめてもらおうということを願ったわけなのです。 今日でも私たちがキリスト教綱要を見ますと、序文のところでこのように、フランソワ一世に献呈したというかたちでこの書物が書かれていますのは、こういう厳しい時代の中で書かれた作品でありましたので、このことを抜きにしてこの書物のことを理解することはできない程、本当に命がけの信仰の戦いの中からこの作品が生まれてきたわけであります。 この著作がたちまち広まりまして、カルヴァンの名前とその信仰的な考え方、神学が広まって行きました。カルヴァンはその出版とともにイタリアの方に行きまして自らの信ずるところを人々に広めようとしました。そのあと、カルヴァンは一時フランスのノワイヨンに行きましてそのあとフランスを去ったわけですけれど、そのあと二度とフランスに帰ることはありませんでした。そのあとバーゼルというところに行こうとしたのですけれども、戦争の危機をさけるために途中で回り道をしまして、ジュネーブというところに行きました。一九三六年の七月頃です。実はこの回り道というものがこの人の一生を変え、そしてその後のキリスト教会の流れというものを大きく変えるということになったわけであります。 カルヴァンがジュネーブに行ったときにファレルという人が、カルヴァンの泊まっている部屋に訪ねてきました。ファレルは何と言ったかというと、この今カルヴァンが泊まっているジュネーブの町のために是非働いてほしいと言うことを願ったわけです。でもカルヴァンとしては自分はそういうことを全然考えていませんでした。たまたまコースを変えてちょっと寄っただけでしたので、そういう大事なことに応じるということはなかったわけです。けれどもファレルの方も何とかして説得したいと思ったので、こういうことをカルヴァンに言ったのです。それは、「あなたはただあなた自身の願望にだけ従っている。私は全能の神の御名において宣言する。もしあなたが主のこの働きにおいて私たちを助けないならば、主はあなたが主のためよりもあなた自身の関心を求めることの故にあなたを罰したもう。」と、こういうことを言ったのです。 「もう、この働きから逃げるのだったら、神様ご自身があなたのことを罰しますよ。」こうやって説得したわけであります。これはなかなかの説得だなと私は思うのです。たとえば、私は今の鈴木先生のことは良く知らないのですけれども、ちょっと前の鈴木先生はよく、青年を見つけると、牧師になれと、よく勧めたんです。私は、別に自分の教会では牧師からそういうことを言われたこともなかったし、そういう感覚もなかったのですが、鈴木先生はよく言っていたのです。例えば、誰かがいて、一対一になってこういう風に言われたら、なかなか断れないんじゃないかなと、「いや、私はできません」なんて言ったら、「それは神様のことを考えていない、自分の意志でやっているんだ、神様は罰するぞ。」と言われたら、これはなかなか大変ではないでしょうか。言う方も言う方ですけれども。これではそう簡単に逃げられないと思うのです。この言葉が良かったのかどうか、結局カルヴァンは一五三六年から三八年までジュネーブの町にとどまることになりました。 それで一五三八年の九月にストラトブールに行きまして、教会の牧師、学校の教師として働き、一五四0年八月結婚しております。その後、また後でも触れますけれども、再び一五四一年九月にジュネーブに呼び戻されました。そしてこの時いよいよ、自らの信じていることを広めることになりまして、一五五九年にはジュネーブ大学を設立するということになりました。 これだけの働きをする人ですから大変強靱な人かと思われがちですけれども、幾多の体に抱えている病がありまして、そういう病気に苦しみながらもこの年表にもありますように、数多くの著作を残し、数多くの説教をし、ついに一五六四年五月二七日に神様の御元に召されました。 これがだいたい年表から読みとれることなのですけれども、今回私が皆さんに特に話したいと思いましたのは、この年表の中でも触れましたように一五三六年と一五四一年から、この二回にわたる、この大変重い説得を受けて働きました、ジュネーブでの働きのことを見て行きたいと思ったわけです。 |