宗教改革のスピリット

〜カルヴァンとジュネーヴ教会より〜


 

三、第二回目のジュネーブへの召命(一五四一年)

 

 その時に、やはりはじめの訪問の時と同じように教会の規律というものをきちっとするということとカテキズムによる信仰教育、この二本柱を持って教会を建て上げようといたしました。一層そのことを願い、実践したわけですが、先ほどその教会の規律のところで群の中から長老を立てるということを申し上げましたが、一層それが形作られてきました。それはそこで立てられたものが牧師、教師、長老、執事、こういう役員になるわけですね。

 

・牧師・教師、長老、執事

 牧師といいますのは宗教改革前の制度によりますと、これは司祭にあたりまして、そうしますと組織の上では司教というものがあります。その司祭の上に立つ人です。ですからカルヴァンなどは牧師たちの指導者でもあったわけですから身分としては司教にあたる、こういうことになるわけです。でもカルヴァンはそういうような身分、司教というのではなくて、他の牧師たちと自分は同等であるということを一所懸命守ろうとしました。人に教えるということ、これは賜物の問題であって、その者が地位的に何か偉いというのではない、みんな同じだということを自らにも戒めたのだと思います。

 それからまた牧師たちの集まり、牧師会が毎週開かれまして、そこで共同で聖書研究をしたり、お互いの説教を磨きあったりということをいたしまして、牧師たちの一致とまた交わりというものを強めてゆきました。

 私たちにはあまり馴染みのないこの教師というのはいわゆる学校で教えるつとめでありまして、当時学校は教会が運営しておりましたため、政府はタッチしておりませんでした。教師は、子供に教える者あるいは神学生に教える者などがいたわけです。

 長老は先ほども言いましたように、規律というものをたて上げるときの要として立てられたものでありまして、牧師たちとともに長老会、私たちで言うところの小会を作りまして教会の責任を負うこととなりました。

 こうして、信徒の群の中から選び出された長老が牧師と同じ責任、同じ権利というもので教会の霊的な指導にあたる、こうしてキリストの教会を建て上げてゆくということをいよいよここではっきりと確立していったわけです。

 それまではいわゆる教職者が教会を代表し、教職者がいて信徒は下にいる、このような捉え方がされていたわけです。けれども、そうではなくて、こういうような与えられた働きというものは、働きの違いであって、牧師たちが教会の上にあって信徒が下にあるというのではない、そのような変な力関係ではなくて、みんな神様の前では同じであるととらえました。

 とりわけ教会の大きな責任を与えられているということに関しても牧師とともに信徒の中から選ばれた忠実な教会員である長老に霊的な責任というものを持つことが相応しいということを確信したわけです。

 それから執事というのは、これはやはり宗教改革前の制度でいえば助祭ということで、これは司祭の前段階ということになるんです、それと同じ言葉なんですけれども、でもこの意味はもちろん全く違いまして、執事は教会内で金銭、献金を取り扱い、管理し、また弱いものに仕えてゆくということを専らの働きといたしました。このような体制を整えたジュネーブの教会が何を目指していったのかといいますと、それは、規律ということを通して汚れない教会というものを目指そうとしたわけです。

 もちろん欠点一つない教会などというものはありませんし、教会はまさに罪人の集まりです。でも、この罪人が日々罪を許され、悔い改め、歩み、キリストに似たものとされてゆく、そのためには何と言いましても神様の御言葉に従う、この生活ができるようにならなければならないわけです。そこでこのような教会を建てる中で、この点を一層目指そうとしたわけなんです。


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